×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

vojaĝo
Plano de vojaĵo al Esperanto-urbo
Esperanto

VOJAĜI ESTAS VIVI

まだ行くかどうかも決めていない計画段階の旅行について書いていきます。
旅の醍醐味はやはり計画しているときにありますからね。
5, jan, 2006 vendredo
ヘルツベルク市役所 にメー ルを出したら返事が来ていた。

ヘルツベルク・エスペラント市
親愛なる同志バルキトゥーロ(手紙 では実名。)
私たちは心からあなたの質問に感謝 し、当然のことながら私たちの街への訪問を喜びます。
私たちのホームページで、あなたは 私たちに対するいくつかの情報と業務、交通案内についての情報を発見できるでしょう。
どうかだいぶ早くにあなたの来訪と 滞在期間を申し出てください。私たちはあなたのためにお買い得な価格で近所のホテルの部屋を仲介するでしょう。
ヘルツベルク・アム・ハルツはドイ ツ国中央の小さな街でBraunschweig の南90キロメートルのところにあります。.
そして、もしあなたが飛行機でベル リンに降り立ったなら、多くの列車の中の一つからBraunschweigへ行き、そこから一時間の律動(註:誤字?)であなたは列車を使って直接ヘルツ ベルクに行くことができます。Braunschweigから小さな列車で75分でつきます。Herzberg Hauptbahnhof (主要な駅舎)は鉄道の停車駅(註:終着駅のことか?)です。もしお金をかけたくないなら、ベルリンからヘルツベルクまで40ユーロ。 (ICEはより速い列車だけど5割増しです。)もしもっと質問があるなら、どうか躊躇わず質問してください。それはそうと、エスペラント市はあなたを歓迎 します!2007年も私たちはあなたに繁栄と良き健康状態があることを望みます。
 親しみを込めて
 ぺトロ・ジルヴァル

Herzberg, la Esperanto-urbo
Kara samideano Kotaro,
ni tre kore dankas pro viaj demandoj kaj kompreneble ni ghojas pri vizito en nia urbo.
Sur nia hejmpagho (vidu sube) vi povos trovi kelkajn informojn pri ni kaj niaj servoj kaj vojkonektoj.
Bv. sufiche frue anonci vian alvenon kaj restaddauron. Ni povos peri por vi chambron au favorprezan hotelchambron en proksimeco.
Herzberg am Harz estas urbeto meze en Germanio, 90 kilometrojn sude de Braunschweig,
Do, se vi flugos al Berlin, vi prenos unu el la multaj trajnoj al Braunschweig kaj en unuhora ritmo vi povos veturi per trajno rekte al Herzberg. De
Braunschweig la veturtempo per eta trajno dauras 75 minutojn. Herzberg Hauptbahnhof (chefstacidomo) estas la lasta haltstacio de la trajno. De Berlino
al Herzberg oni pagos ch. 40 EUR, se oni ne prenas la plej multekostan trajnon (ICE estas la plej rapida trajno, sed kostas 50 % pli).
Se vi havas pluajn demandojn, bv. ne heziti demandi nin.
Cetere la Esperanto-urbo kore salutas vin!
Por la jaro 2007 ni deziras al vi prosperon kaj bonan sanstaton!
 Amike salutas
 Petro Zilvar

さて航空券でも取る かな。

9, dec, 2006 sabato
 残りの二つの村の 歴史もエスペラントから訳出した。

Pöhlde

 Pöhldeはザクセン朝皇帝たちのお気に 入りの住居としての花の時代があった。922年から1059年までの間、ドイツ王たちは頻繁に、主にクリスマス期間にPöhldeを訪れた。ドイツ皇帝と 王の27人が文書に残っている。
 ハインリッヒT世(919年- 933年)のもとで全ハルツ地方に存在し始めた王の宮殿のなかでPöhlde宮殿は「祭日宮殿」のような特別な地位を持った。ハインリッヒT世の 妻Mathildeによって950年ごろに設立されたBenediktana修道院とも確かなつながりを持っていた。その修道院はドイツ農民戦争中の 1525年に破壊され、30年戦争の際に消滅した。

 宮殿と修道院の建築廃材の下で 3〜4世紀の拾得物を掘り出した。それらは前庭の場所にPalithi(聖なる渓谷)という名のゲルマン人の集落があったことを示している。

 Rotenbergの尾根の下に あって、8〜9世紀に建てられた二つの郭を持つKönig Heinrichs Vogelherd城(ハインリッヒ王の鳥小屋城)もPöhlde宮殿に所属する。この要塞は谷の中の貴族の庭のためにあって、不穏な時代の避難場所 だった。中世の間にPöhlde宮殿へと発展した。
 同時にそれはおそらく太古から使 われている、ラインラントからRotenbergを通って中部ドイツに至る中世の商業路の防壁となった。

 Pöhldeの裁判所の菩提樹の 年齢は1000年と推定されている。Thingplatz(ドイツの法廷)の上でそのときは裁判をした。記念板は1048年の領主Thietmarについ ての神の裁判について記念している。
ヒェフルデ
 Pöhldeの紋章は金色の背景の上に緑色 の菩提樹がある。緑色の土壌の上で成長しつつある。左から右に銀色の川が流れている。緑色の土壌は住民が草原にしっかり根をおろしていることを示してい る。なぜなら住民はほとんど例外なく農業で生きているからだ。
 
 オーデル川ははるか太古に Pöhldeにある最初の渓谷の原型を作った。1000年間も自然に守られてきた菩提樹は目印であり、その下で人間は創造や労働を生み出すことができた。 このようにPöhldeはその菩提樹を紋章の絵柄に選んだのだ。

Pöhlde am Harz


Scharzfeld

 その場所への最初の言及は、好意的なオッ トーT世のPöhlde修道院への952年の寄贈文書である。

 Scharzfeldの北のまば らな広葉樹林の中に牧歌的に存在するScharzfels城と要塞は巡業路によって簡単に到達できる。超越した苦灰岩の上にある城は高い要塞と低い要塞を 構成していて、文書での言及はScartveltのハルツの城としてが最初である。1593年にHohnsteinerの領主が死に絶えた後で城はヴェル フェン家の所有物になった。1627年には建造が終わった後で国の牢獄となり、七年戦争の間の1761年にフランスの部隊がその要塞を破壊した。

 Scharzfeld村は Steinkirche(石の教会)という名とRitterstein (騎士石)にあるAbris(石の防御用屋根、フランス語)とSchulberg(学校山)で知られている。Spatenforschung(発掘調査) は石の教会と学校山におけるのが旧石器時代(紀元前6万年〜1万年)と中石器時代(紀元前1万年〜4000年)の間にハルツ山地の南西における最も早い人 間の登場であることを証明している。低地ザクセンのいまだ唯一の旧石器時代の洞穴の遺跡として、石の教会はその土地で最も有名で最も重要な遺跡である。 もっとも早いキリスト教時代に石の教会はキリスト教文化の場所に変わり、それは14世紀まで使われた。祭壇と説教台と聖水のための壁龕はこの時代に起源を 持つ。

 主要な通りから離れて立つ聖トー マス教会は1855年に建てられた。以前の教会は15世紀の彫刻祭壇に起源を持つ。それはおそらく最も大きな行方不明になった祭壇の一つの部分であった。
シャルツフェルド
 Scharzfeldの紋章は赤い盾に 飛び上がる一角獣を描いている。

 Scharzfeldの洞窟は 1762年からEinhornhöhle(一角獣の洞窟)として知られている。それはかつてのGrubenhagen侯爵領の南東にある。一角獣は架空の 動物だけれども、それは19世紀まで重要な役割を持っていた。1703年にはすでにその洞窟について語られていて、それはそこで掘り出された Unicornu fossile(すなわち伝説上の一角獣の骨)で有名になっていた。実際はヨーロッパバイソンやオオツノジカを主題にしている。
赤色と白色(金色)はかつての Grubenhagen侯爵領とつながりがあるので選ばれた。そのように故郷の歴史の記憶を復興させている。

Scharzfeld, Natur erleben. Erholen und entspannen auf der Harzer Sonnenseite, bei Hobby, Sport und Unterhaltung!

どんな小さな町にでも歴史はある。歴史というものの奥深さをこのヘルツベルクから教わった。


8, dec, 2006 vendredo
 ヘルツベルク・アムハルツとして合併した四つの村の歴史もエスペラントで書かれている のでこれも訳出してみる。まずは二つの村から。

Lonau

 Lonau村とSieber村は16世紀のはじめに鉄鉱山と製鉄業の設立により発展 した集落を起源としている

 そのLonau村は1615年に公爵の税文書で、最初に言及されている。しかしすでに1525年にはLonauの鍛冶屋が言及されている。
ロナウ紋章
 Lonauの紋章は現在のものも過去のものも村の特産品として同じであることを象徴 的に示している。青い波打つさすまたで分けられた黄金の盾の上ではヨーロッパオオライチョウ(欧羅巴大雷鳥)があり、左側には黒い街路のぶなの葉が、右側 には交叉する黒い金槌と鋳型流込棒がある。

 Lonauの村の中心は教会と共に、Kirchtal (教会谷)とMariental(マリア谷)から流れる小川が合流するところにある。青い波打つさすまたはこの状況を象徴している。住民がヨーロッパオオ ライチョウを紋章動物として選んだ。それはとりわけ市民たちがいつも自分達を、ハルツ地方にヨーロッパオオライチョウを再導入するために1972年から存 在するヨーロッパオオライチョウ飼育場の成功した仕事と同一視しているだからだ。

ぶなの葉は育成林と村の名前を表しているものだ。というのはLonauは「ぶなでいっぱいの谷」を意味するからだ。Lonauでは13世紀から1753年 まで製鉄をしていた。鋳型流込棒と金槌はそれを思い出させる。
Verkehrsverein Lonau

Sieber村。 冒頭一段落はLonau村と同じ文章が書かれているので省略。

 1574年にSieberはKönigshofhütte (王の庭鍛冶屋) Sieberhütte (Sieber鍛冶屋) とUntere Sieberhütte (低地Sieber鍛冶屋)の三つの鍛冶屋の名と共に言及されている。.

 その村は今のHüttehof(鍛冶屋の庭)を近傍に起源を持ち、そこはKeydel製鉄所と Neuse製鉄所の最初の炉があったところだ。
ジーベル紋章
 村の紋章は緑色の背景の上にS字形の銀色の線がある。その上に金色の鹿の角があり、下には交叉した金色の鉱山金槌がある。S字形の線は銀色の小川、緑色 の草原と森を貫いて流れるSieberを意味する。鉱山金槌はSieberの起源がハルツ山地の最も新しい鉱山のうちの一つとして、であることを示してい る。そして鹿の角は育成林業の象徴である。
Sieber... was sonst Erholungs-Urlaub & Reiseziele im Harz
 
 
ドイツ語は読めない けどSieber村の大体の様子は理解できた。


7, dec, 2006 ĵaŭdo
 ヘルツベルク・ア ム・ハルツの歴史についてHerzberg la Esperanto-urboにエスペラントで言及されてあるのでこれを訳出する。

 ヘ ルツベルク城、それはすでに城山のふもと の民家の一つになっていて、ハインリッヒ獅子公(ザクセン公)の寄贈文書で最初に言及されている。

 ヘルツベルク集落自身については 一度だけ分割契約書に «dat dorp tho Herttesberge» として文書に登場する、それはブラウンシュヴァイクのヴィルヘルム公と彼の兄弟のブラウンシュヴァイクのハインリッヒが1337年の3月17日に記述した ものだ。ヘルツベルク集落についてのさらなる指摘はすでに1143年6月14日の文書(それ はGerode修道院の略奪にあるHermann von Hircbercという人物が参加したことを報告している)とWalkenried修道院の1246年の文書に見ることができる。
都市紋章
 都市の紋章はTruchseß von Blankenburg-Herzbergの印を もとにしている。それは1345年にヘルツベルク城主の氏族の紋章動物として「後ろ肢で立つ鹿」を示している。

 その都市はこの集落から城山のふ もとで発展した。それは都市の古い中心部の幾つかの通りに堂々とした市民の家屋と旧親方の家屋を持っていた。調和した梁格子の前面はそのころの豊かな市民 の代表的な意匠とその美的な建築に対する考えを示している。

 1929年の10月25日に当時 のヘルツベルク村はプロイセンの大臣命令によって都市権を獲得し、1939年まで 田園小都市として5000人を超える住民と共に発展した。それから1937年の1月に Lonauhammerhütte村が分かれた。(それは1689 年にH.C. Keydelによって設立された製鉄業に起源を持つ)

 そして1868年には直接Northeim-Nordhausenの鉄道路線と繋がり、1989年11 月12日に東西ドイツ間の境界が開かれてから少しずつ重要なものを受けとってきた。1972年7月1日には隣村のLonau、Pöhlde、 Scharzfeld そして Sieberがヘルツベルク村と合併し一つの共同体となった。

 良さそうな田舎町 の描写である。そしてこの翻訳で有益な 情報を得た。それはこの都市には駅があることである。そしてその情報を元にまたインターネットでヘルツベルク駅の場所が分かった。本当にNortheim 駅 とNordhausen駅の間にある。なのでこれを元 にDie Bahnで暫定的にベルリンからヘルツベルクまでを検索するとかかる時間は2時間50分弱、ということがわかる。あとは直接ヘルツベルク市に聞い てみるしかない。

6, dec, 2006 merkredo
 渋谷のブック ファーストで旅行ガイドブック『地球の歩き方』と『ロンリープラネット』などを立ち読みした結果では、とりあえずヘルツベル ク・アム・ハルツ市とグラ市については全くこれっぽっちも触れていていなかった。地図にさえ載っていなかった。そしてグラ市の方はポーランドの地図を広げ てポーランドの南西部にある都市 Lesznoのそのまた南西部にやっとその地名Góraを見つけ、その南部に沼沢地があるのを確認し たくら いだ。というわけで両市 の位置はインターネットで確認 した。便利すぎて嫌になるくらいの時代だ。でも、これで得たものはあ る。それはガイドブックは役に立たないということだ。
ドイツの地図
Volga Germansより

ポーランド地図
Geography-Merriam-Webster's Atlasより

5, dec, 2006 mardo
 大学の図書館を出て高田馬場駅へ と歩く「馬場歩き」の道の途中で、突如として、旅行に出たい、海外を旅したいという欲求が脳内に湧いて出てきた。それもエス ペラントを使える国、都市、町へ行ってみたいと脳が、体が欲していた。行き たいのは、たぶんヨーロッパ、おそらくは東欧、なかんずくザメンホフ の生まれた国ポーランド。なんでこんな考えが浮んできたのかといえばやはり『宇 宙人 (コスモポリタン)はかたる』(翁久允)なんて昭和初期の放浪者の本を借り てきたから だ。どうもコスモポリタン症候群に罹ったらしい。 家に帰ると早速パソコンを開きエスペラントのブログであるエスペラント萌えな瞬間を読んでみた。そのブログで以前に読んだこと のある記 事が旅行の大きな手がかりになると家ま での道のりで考 えたからだ。その記事「『エスペラント市』始めました。」中のドイ ツ国のヘルツベルク・アム・ハルツ市Herzberg am Harz die Esperanto-Stadtとポーランド国のグラ市Góraをこの旅の行き先にしようと私は暫定的に決めた。両方ともエスペラントの普及に力を入れて いる都市である。しかも前者は「die Esperanto-Stadt」と、市名にエスペラントを入れてしまった都市である。日本だったら大反対が起こるだろう決断であり、私はその決断を下し た市民の勇気に 感服した。そして行きたくなった。

Libera folioの記事
Herzberg am Harz ヘルツベルク・アム・ハルツ市のホームページ
Interkultura Centro Herzberg ヘルツブルグの相互文化中心
Góra グラ市のホームページ

Barkituro

Revenu

Vojaĝo
水晶 の森