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エ スペラント偽史

Pseŭdohistorio de Esperanto


 人工国際語の歴史における十九世 紀後半のヴォラピュクVolapükの撤退と、エスペラントの勝利を以って、エスペラントこそが人工国際語の「解答」であると断ずるのは勇み足だ。しかし エスペラントが一八八七年に発行された小冊子『第一の書』Unua Libroによって登場し、二十世紀前半のうちに世界に拡大し発展を見せたこと、そしてその文法がどれか一つでも手を加えてしまえば全てを変えなければな らないほどの繊細な均衡の上に成立しているものであること。この二つの理由から、エスペラントこそバベルの塔の事件以後に導き出された言語の「解答」であ るという前提でこの言語を論じてしまうのは無理もないことなのかもしれない。

 その人工国際語の作成者がロシア 帝国領ポーランドに住んでいた眼科医ラザーロ・ルドヴィーコ・ザメンホフであることは歴史的事実であり、エスペラント史の基本知識の一つだ。そして彼がエ スペラントを発表する以前に、一八七八年に既存の民族語に手を加えてLingwe uniwersala (pra-esperanto)を作成していてギムナジウムで広めていたこと、父親に焼かれてしまったその初期案に改良を加えたものがエスペラントである こともまた歴史的事実とされている。しかし歴史的「事実」とは歴史家のまやかしと自負心から出たものであることは歴史学の常識である。幾つの歴史的事実、 常識と呼ばれてきたものが歴史研究の中で覆り、否定されてきた。歴史とは歴史学者の主義・主張に他ならない。歴史上で本当に何が起こったのかは当の本人し か知りえないのだ。

 しかし現在のエスペラント史研究 の成果により、この人類愛に燃えた眼科医ザメンホフをこの言語の創始者とすることに疑問符が打たれる結論が出た。疑問符といったのはこの結論が決して終止 符ではないことを指摘している。確かにザメンホフは自らをエスペラントの創始者kreintoではなく提唱者iniciatintoでありたいと望んでい たが、この歴史的結論は決して彼の望み に従った結論ではない。すなわち端的に言えば、ザメンホフはエスペラントの作者でも提唱者ではなく宣伝者にすぎなかった、発明者ではなく発見者にすぎな かった、という結論だ。つまりザメンホフはエスペラントを作っていないということである。もう少し言えばLingwe uniwersalaはエスペラントの原型などではなく、逆に「エスペラント」をもとにして、理想に燃える若いザメンホフが勝手にこねくり回してできたも のであり、エスペラント以前に至るまでに続くザメンホフ諸案もそれの類似品であるということだ。ただ『第一の書』ロシア語版の著者は間違いなくザメンホフ である。しかし、そこに書かれた言語はザメンホフが作ったものではない。そしてザメンホフは『第一の書』を発行し、発行後にその文法に少しばかりの改造を 加えただけの宣伝者なのだ。つまり一八七八年以前にエスペラントの文法は存在し、ザメンホフは何らかの手段でその文法を入手していたのである。

 急な話で混乱したかもしれない。 しかし歴史事実や常識とは常に仮説である。このことを思い返せば脳の中を吹き荒れる嵐のような混乱もじきに止むであろう。ここで言葉を定義する。エスペラ ントという言語名はザメンホフの筆名エスペラント博士に由来するのでここで使うと大変に紛らわしい。しかし慣例として用いられているのでここでもエスペラ ントを世界で最も有名な国際語の名称として使用する。

 まずきっかけはヨーロッパ北西部 の島国から始まる。イングランドの歴史学者ベンジャミン・アーウィンはこの世界で最も有名な国際語エスペラントをザメンホフが発明したのではない、という 仮説を彼の伝記研究から打ち出して、ザメンホフが参考にしたと思われるエスペラントで書かれた『第零の書』Nula libroを仮定してその書物の捜索を始めた。アーウィンはこの存在さえ証明できればザメンホフがエスペラントを発明したという歴史的事実を覆すことがで きると考えたからだ。その『第零の書』の出版年はなるべくなら、ザメンホフの誕生以前のものであれば好ましかった。この「無価値な本」という意味も持って いる『第零の書』Nula libroの探索は多くのエスペランティストから滑稽だと笑われ、疑いと奇異な物体を見たような視線を浴びせられた。しかし幾つかの非難の声や嘲笑の中 で、彼の書斎に山積みになるまで収集した質の悪い紙や出来の悪い活字で組まれた、どのエスペラント書籍にも出版年がザメンホフの生年一八五九年はお ろか、一八八七年すら遡る物はなかった。「不幸なベンジャミン」こと、アーウィン博士は失意のうちに病死した。

 しかし彼の死後、歴史学者と書誌 学者の間で このアーウィンが訴えたエスペラントで書かれた『第零の書』が存在するのでは、という噂は、半ば伝説として半ば事実としてエスペラント史研究者の間でま ことしやかに語られることになった。あるフランスの書誌学者はそれをザメンホフ版旧約聖書であると主張した。また、ポーランドの歴史学者はザメンホフ版以 外のエスペラント版旧約聖書が世界中の図書館のどこかに存在すると仮定してそれが『第零の書』であると主張した。ドイツのある宗教学者(彼の名誉のために 名前を伏せる)は、『第零の書』は十七世紀の錬金術結社の五、六枚の紙で構成されたパンフレットであると仮説を立てて、実際に彼自身がそれを捏造して大々 的に新聞社や報道を巻き込んで発表し、すぐに彼が不注意にも十七世紀には存在し得ない化学物質の単語を使用したために歴史学者の鋭い鑑識眼に見破られて学 界を逐われた。アルゼンチンの小説家ホルへ・ルイス・ボルヘスの熱狂的な愛読家はボルヘスの短編小説「バベルの図書館」に出てくるバベルの図書館に『第零 の書』は存在するのだ、という主張をしてそのあまりの夢想ぶりと能天気さによって嘲笑を買うことには成功したが感心は買えなかった。一部の文学批評家がこ れについて寸評を書き、ボルヘスの本が世界的に少し売り上げを伸ばした。

 けれども遂に決定的な証拠が出 た。インドの歴史学者グスタプダ教授が大英帝国の十九世紀初頭の東インド会社の文書の中からエスペラントのようなアルファベット列のメモを発見して、イン ド歴史学会で発表したのである。この発表は全世界を駆け巡り世界各地のエスペラント史研究者は『第零の書』の捜索を一旦打ち切ってこの同志の朗報を表では 賞賛しながらも、妬ましくも疑い深い視線でこれを見守った。

 その文書はアラビア半島の海賊海 岸(後の休戦海岸)におけるアミール国の海賊行為について言及したもので、英文で書かれた本文の脇に

 marrabistoj de emiro atakis nia□n sipoj□. el maskato 14a majo 1818

 と雑なアルファベットで綴られて いた。字上符の省略や虫食いなどがあるがエスペラントならばかろうじて「アミールの海賊たちが我々の船を襲う。マスカトより、一八一八年五月十四日」と読 める。科学的な測定からもこの文書がザメンホフ生誕以前のものであることが証明され、グスタプダ教授は栄誉と名声とを獲得した。しかしその翌年に書かれた 彼の論文「インド洋交易におけるエスペラント」は囂々たる批判を受けて「偉大なるグスタプダ」は学界から身をひかざるをえなくなった。それは言語史の専門 家であった彼が不用意に交易史に手を出したためと言われているが明らかではない。彼の発見はエスペラントの歴史にとっては偉大であったが、そこからザメン ホフという旧ロシア帝国のユダヤ人とこの東インド会社の文書におけるエスペラントとが繋がる歴史的要素は何も発見することはできなかった。そのためこの二 つを結び付けようと東欧の幾つかの歴史学会においてインド洋のユダヤ人交易商会でエスペラントが使用された可能性なども指摘されたが、大した証拠も出な かったために結論は出なかった。そもそもこの文書にメモを残した人物が誰なのかも不明である。

 このようにザメンホフはエスペラ ントを発明したのではなく、以前からエスペラントは存在していた、ということはあきらかになった。しかし「不幸なベンジャミン」こと、アーウィンの『第零 の書』Nula libroの仮説は、幾人かの熱心な信者を除いて、否定された。もしそういった書物がなかったとしてもエスペラントが存在するということはこの言葉を話し ていた民族(エスペラント 人!?)が存在するか、発明者がいたかのどちらかである。もしかしたらこれからエスペラントがアラビア半島の石碑に南アラビア文字とともに出現するのかも しれない し、『緑の聖典』Verda Biblioといったまやかしの書が『第零の書』の代替物として実在するのかもしれない。ロシアの発掘隊がユーラシア大陸の奥地にエスペラント族の村が発 掘するのかもし れないし、古代帝国の言語的迫害を恐れたエスペラント人が地下王国で今でも生存しているのかもしれない。しかし、もしそれらが発見されたとしても原エスペ ラント 族や発明者に辿り着けるのかはわからないし、なにより発見者ザメンホフにまで結びつける作業は気の遠くなるようなものになるだろう。一種の諦観を以って、 はるか昔の言語発明家や原エスペラント族の収穫祭の踊りに思いを馳せながら、エスペランティストはこの謎の歴史を持つ言語を安楽椅子の上で独り呟くのだ。
Barkituro
新・エスペラント偽史
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