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エスペラントと新語法

〜Esperanto and Newspeak

 ジョージ・オーウェルGeorge Orwellの代表的な作品である『1984年』の巻末に、劇中の仮想国家オセアニ アの 公用語である新語法Newspeak、ニュースピーク)の解説書、「ニュースピークの諸原理」が 挿入されている。こ れにはエスペラントとの類似点も幾つかあるので、ここで新語法とエスペラントの文法とを比較してみる。『1984年』という物語自体は、生活から思想まで の尽くを支配するオセアニアという管理社会に生きてその体制に疑念を抱いた男と女の愛、そして2人が思想警察に逮捕された後の思想改造の成れの果てを描い た社会派小説である。これが書かれていた当時のソ連社会を考える上でも、そして現代の日本社会を考える上でも、また一般的な社会について考える上でも重要 な香辛料となる。私が産まれた年を舞台にしているけれど、その扱っている内容は普遍的なものなので、今日でも充分に読者に驚きを与える新鮮さを保ってい る。

■類似点
・「第一の特徴は異なった品詞間の転用が殆ど自由自在に行えるということであった。」 (p.395)
 これは特定の意味を持つ語幹にその品詞を表す接尾辞を付属させれば品詞転換が可能になるというもので、エスペラントとほぼ共通する。ただし新語法の場合 は「名詞と動詞との語形の間にはそれが同一の語根かは(誤字)出てさえいれば何らの異同もなかった」。すなわち新語法では名詞と動詞の形は区別されなかっ たのである。例えば「think」という単語は「考える」という動詞の意味も「思想」という名詞の意味も持っている。

Esperanto
Newspeak
名詞
-o

形容詞
-a
-ful
副詞
-e
-wise
動詞
-i


・「un-という接頭語を付け加えれば否定語にできたし、plus-という接頭語をつ ければ強意語…」(p.396)
 これは接尾語や接頭語を語幹に付属させることによって一つの語幹から多くの単語を獲得する方法である。エスペラントでは否定辞mal-をつけ、ここで紹 介されている接尾辞にそれぞれ対応するものはエスペラントにもある。(ただしdoubleplus-は造語可能であるだけ。)例を示せば新語法では 「good」は「善」であるが、「ungood」で「悪」という意味になる。同じようにエスペラントでは「bono」=「善」「malbono」=「悪」 となる。

・「如何なる動詞の場合も過去と過去分詞は同一であり、-edという語尾だけを付け加 えればよかったのだ。」「全ての複数形は-s或いは-esという語尾を付け加えて造られた。」「形容詞の比較級と最上級は一様に-er,-estという語 尾を付け加えられて造られ」(p.397)
 そもそもエスペラントと英語の基本となる文法構造は違うのでこういったものも類似に含めていいのかわからないが、動詞活用の画一化、比較級・最上級活用 の画一化という点では類似している。複数形ではエスペラントは画一化になっているにもかかわらず英語は単純化にとどめている。これはエスペラントの単語に 複数形接尾辞-jを付属させる場合は殆ど形容詞接尾辞-a、名詞接尾辞-oがつく場合であり、それ以外でも母音に付属させる場合がほとんどという語彙形式 の違いから来るものだ。

・「whomは不要なものとして廃棄」「shallとshouldはwillと wouldで代替されるとして廃止された。」(p.398)
 エスペラントでは関係代名詞kiuに目的格接尾辞-nを付属させてkiunとすることでwhomの役割を補っている。つまりエスペラントに単独で whomに置換できる 語彙は無い。またエスペラントでは名詞の人称に よって動詞が変化することはないので、shallとshouldの点でも共通している。


■相違点

 以上のようにA語彙群での共通点は多い。しかしB,C語彙群では共通点は見受けられない。エスペラントに略語の奨励はないし、エスペラントが発音し易い のは確 か だが、それは音韻上の問題であって単純に「無数の用語は殆ど一様に二乃至三音節であり」ということもない。

「ニュースピークの目的は、イングソックの熱狂的な支持者に固有な世界観や精神的慣習 に対して一定の表現手段を与えるばかりではなく、イングソック以外の あらゆる思考方法を不可能にするということであった。」(p.394)

という新語法の目的はエスペラントの、つまりはザメンホフの言語創造の目的とは合致しない。そのため共通点で見られた基語彙法以外の、INGSOC(英国 社会主義)の政 治的意図が表現されているB,C語彙群とエスペラントとの間に共通点は存在しない。しかし確かに目的は違っても機能が同じであれば同じ作用をもたらしてし まうこともある。しかしエスペラントの語彙は豊富であり、この言語によって記述できない思想はほとんど無い。あるとしたら英語でもフランス語でも中国語で も記述できない思想だけだ。つまり文法が単純であっても決してその言語使用者の思考を制限したりはしないのである。また、これらの議論の前提として文法の 単純化、もしくは画一化が思考方法を単純化するのか?という議題がある。この疑問は言ってしまえば特定の言語に対する偏見である。いくつかの語彙の使用が 法律で制限されていない限り、単純な文法の言語で考える人が、複雑な文法の言語で考える人よりも、高度に哲学的な思索に耽ることは可能である。同じ言語を 話す人間の間にも思考方法や高度に差があることも、そういった言語への偏見が誤ちであることを表している。すなわち「新語法の単純な文法=思考の制限」と 短絡的に考えることはできないのだ。これは新語法自体への批判である。もし反ユートピア言語論としてこの新語法を生かすためには単純な文法 よりも、むしろ 語彙の制限や略語に注目すべきだ。なぜなら、文法によって思考が制限されることはなくても語彙によって思考が制限されることはあるからだ。どんなに単純な 文法であっても語彙が豊富ならどんなことでも表現できるが、語彙が貧困であればいかに複雑な文法を以ってしてでも表現できないことは出てくる。大学受験の 英 語で語彙が重要なのもそれが原因だろうか?

 このようにエスペラントと新語法を比較してみたが、似ている点はあって、確かにいくつかの点で新語法はエスペラントをもとにしたのかもしれないけれど、 新語法 はエス ペラントではなく、エスペラントに対抗するために考え出されたベーシック英語をもとにしているという大方の意見に賛同できる。一方でこんな意見もある。

英文学者のオーウェル研究者は、「ニュースピーク」の モデルを、「ベーシック英語」とみているようだが、造語法のヒントは、おそらく エスペラントにある。■たとえば“rapida(はやい)”,“rapide(はやく)”とか、“bona(よい)”⇔“malbona(わるい)”と いった 造語法を整備することで、エスペラントは、最小限の語根を最大限活用する方針で考案され、造語をくりかえしてきた。安易に「外来語」として、既存の言語の 「輸入」「同化」をさけたのである。■『1984年』をみるかぎり、オーウェルが エスペラントに無知だったとはおもえない。そして、エスペラントをヒントに、スターリン主義的 管理言語=人工言語を 考案して 反ユートピアの道具だてにしたのなら、エスペラントの造語論への 反感ないし違和感があったと推測するのが自然だろう。(オーウェル『1984年』私論-タカマサのきまぐ れ時評-より)

 これはいささか問題のある意見である。そもそも既存の言語の「輸入」と「同化」によって成立しているエスペラントの日常用語は確かに「外来語」の輸入を 避 けてきた。しかしエスペラントの科学用語・専門用語はほとんど既存言語の輸入である。これは驚くほど新語法のC語彙群の説明と類似する。そういった意味で も オーウェルはエスペラントを知っていただろう。しかしエスペラントが実際の歴史においてスターリン主義的管理社会で「人民の敵」として迫害を受けたことを 鑑 みるまでもなく(このことは同時代のエスペランティスト達も知らなかったようだ。)、エスペラントが外国人と交流することを前提としている限り(オセアニ ア 人は ユーラシア人やイースタシア人と交流できない。)、エスペラントが閉鎖的な管理社会 と適合しえないことは明白である。エスペラントの造語論への批判なら もっと違う形をとる べきであったろうし、もし管理社会のための人工言語の原型としてエスペラントを考えていたのであれば、それはオーウェルの見当違いであろう。この新語法を 反ユートピア論で 生かすためには上で論じたように「文法の単純化」ではなくエスペラントには無い「語彙の制限と略語」に重点を置かねばならなくなる。

sed Orwell mem certe sciis pri Esperanto. Li iris al Parizo en 1927 por plibonigi sian regadon de la franca lingvo kaj viziti sian onklinon, Kate Limouzin, kiu estis la kunulino de la fondinto de SAT, Eŭgeno Lanti. Esperanto estis la ĉefalingvo de la domo kaj, por Lanti, kiel Orwell eksciis, Esperanto estis ne nur lingvo, sed ankaŭ ideologio. Lanti montris al Orwell (se li ne vidis ĝin antaŭe) la ligon inter politiko kaj lingvo. Orwell suferis, ĉar li ne parolis Esperanton.(Novparolo-Vikipedio- 13-a novembro 2006より)

訳)しかしオーウェル自身は確かにエスペラントを知っていた。彼は彼自身のフランス語能力を向上させるために1927年にパリへ行き、おばのKate Limouzinを訪れている。Kateは「国民性無き全世界協会Sennacieca Asocio Tutmondo」の創設者Eŭgeno Lantiの妻だった。エスペラントはその会の主要言語であり、オーウェルが知ったように、Lantiにとってエスペラントは単なる言語ではなく思想で もあった。Lantiはオーウェル(もし彼が以前にそれを見たことがなかったなら)にその協会が政治と言語の間にあると示した。オーウェルは悩んだ。とい うのは彼はエスペラントを話せなかったからである。

 オーウェルのおばが「国民性無き全世界協会」(国民性ばかりでなく中立性をも廃した国際エスペラント団体)の創設者の妻であったことや、彼のフランス滞 在中にエスペラントに触れたことからオーウェルがエスペラ ントを知っていたことは間違いない。1927年当時の「国民性無き全世界協会」は会員5216人を抱える興隆期にあった。そのようなことから新語法もいく らかはエスペラントの影響も受けていることは確かだろう。しかし新語法は、エスペラントへの批判ではなく、純粋に管理社会とその言語政策への批判であり、 エスペラントへの反感ないし違和感はない。「unlight」(暗い)をあげておいて「dark」(暗い)の使用も代替として認めていることが (エスペラントではそういうことはない)その理由でもあるし、なにより否定接頭辞はエスペラント特有のものではなく英語にもun-という接頭辞がある。そ の他の文法の単純化ないし画一化もエスペラント以後の人工言語に共通するものだ。また思 わせぶりに書いたエスペラントと新語法の共通点も、それほど大きな意味を持つものでもない。すなわち管理社会の言語である新語法をあえて国際社会の言語で あるエスペラントと連結させるような必然性は何も ないのであ る。ジョージ・オーウェルとエスペラントの出会いはそれだけで一つの小説になりそうだが、新語法とエスペラントはまったく無関係である。

 中には「國語國字改惡問題」とからめてこの新語法を批評し、それに乗じて人工語であるエスペラント批判につなげている岡田俊之輔氏(残念ながら授業を受 けたこ とは無い)のような論調もある。これには批判した材料の選択を誤っていたり、エスペラントそのものに対する理解不足がある。だが確かに、古代中国から一貫 して連続してきた漢字の成立の歴史や日本語の連綿とした変化を無視するような日本の新字体や中国の簡字体は、東洋漢字文化そのものを否定する行為である し、新仮名遣いも日本語の連 綿と続いてきた言語の変化の歴史を抹消するものだ。それを経てきた現代日本語は人工語であるエスペラントと同じような言語になっている。しかしそもそも文 法を与 えられた時点でその言語は「人工語」になるのではないだろうか?例えば日本人が中高と習ってきた英語は日本人にとってまさしく人工語そのものである。また アラブ色やペルシャ色が抜かれた人工的な手が加えられた現代トルコ語なども人工語といえよう。そして現代 日本社会を生きる岡田氏(1963年生まれ)の旧仮名遣いの文体も、また人工語なのだ。

ここまで露骨に書いてもまだ理解出來ぬ人がゐるので書く。オーウェルは人工言語がイデ オロギーの産物であり唾棄すべきものである事を述べてゐる。人工言語を使はされる事は洗腦と同じである(それを誰も疑はなくなる)事、急進的な革新イデオ ロギーが過去を否定し斷絶を目的とする事を述べてゐる。『1984 年』より「ニュースピークの諸原理」

 と、人工語を批判している文章でさえ、人工語なのである。そしてどんな人工語であっても文化を保有できるし、思索に耽ることができる。言語はさほど 重大な問題ではないのだ。このことは全世界がエスペラントを習っても戦争がなくなるわけではないことからも理解できる。
 その言語の文法が単純化させられようが、文字が簡略化されようが、それが言語である限りは思考、社会や文化に悪影響はない。もちろん良い影響もない。も しそうなって思考が空虚に なるの だとすれば、それはもとから空虚なのであって言語のせいではないのだ。言語への愛は尽きぬだろうが、愛する余り盲目になるのも考え物だ。ジョージ・オー ウェルの新語法は衝撃的だ が、実際は『1984年』の設定の中で無意味なものの一つなのだ。
Barkituro

【参考文献】
ジョージ・オーウェル著、『1984 年』、新庄 哲夫訳、早川書房(ハヤカワ文庫NV)、2006。
 黒田龍之助著、『はじめての言語学』、講談社現代新書、2004。
ウルリッヒ・リンス著、『危 険な言語―迫害のなかのエスペラント (1975年)』、栗栖 継訳、岩波新書、1957。
 【参考】
Novparolo -Vikipedio-10:54, 24. Okt 2006
オーウェル『1984年』私論-タカマサのき まぐれ時評-
ベーシッ ク・イングリッシュ学会
Esperanto and George Orwell
How to build a Language
エスペラントに對する疑問
ジョージ・オーウェ ル『一九八四年』
『1984 年』に見るジョージ・オーウェルの警告

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