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世 界 市民主義


 こ の頁は「
大 学国 際教養学部設置案」で触れ た、国際教養学部(FIĜE)で根幹となるべき思想である世界市 民主義につい て補足し、その構想を補助するためのものである。ちなみに エスペラント では世界市民主義をkosmopolitismoもしくはmondcivitismoと呼び、そして世界市民をkosmopolitoもしくは mondcivitanoと言う。語幹「kosmopolit-」は世界市民である個人を基本とした外来語で、「mond|civit-」は世界を表す語 幹「mond」と市民や公民全体を表す語幹 「civit」の合成語である。だから世界市民主義者全体を表す際はmondcivitoと書き、個人をさすか全体をさすかが曖昧な場合は kosmopolitoを、個人を強調する場合は集団の構成員を表す接尾辞「-an」をつけたmondcivitanoを使えばよい。また最後に述べる が、 この世界市民主義は、グローバリゼーションとも呼ばれる全地球化tutglobiĝo/tutmondiĝoやその根底となるグロー バリズム(地球主義tutglobismo/tutmondismo) とは一線を画すも のである。また世界市民主義は国民国家naciŝtatoを基本とする国際主義internaciismoとも違うものである。

ヘレ ニズムの世界市民主義

  ここではまず最初に世界市民主義 の歴史について述べる。世界市民主義(コスモポリタニズム)はもともとキュニコス派(犬儒派)の哲学者ディオゲネスが 言ったという言葉「コスモポリテース」(世界市民)に由来する。よく言われるコスモポリタンとは、「全世界(国際的)な、国際人」という意味のイングラ ンド語cosmopolitanであり、ギリシャ語のコスモポリ テースがなまった言葉 に過ぎない。ディオゲネスはシノペという都市の両替商の息子として生まれ、その父親か彼自身が通貨を粗 悪なものに改鋳したために通貨改鋳の罪でシノペ市から追放、もしくは自ら退去した経歴を持つ男だ。そして亡命の身でアテナイの哲学者アンティステネスの一 番弟子になった。というのはアンティステネスは元来、弟子をとらなかったからだ。しかしディオゲネスは弟子をとらないから、と断ろうとするアンティステネ スにねばり強く頼み込んで、最後に持ち前の人を煙に巻くような言 説でアンティステネスを感心させ弟子入りを認めさせた。師匠のアンティステネスが毒を飲んだソクラテスの弟子であったので、ディオゲネスはソクラテスの孫 弟子に あたる。

あな たはどこの国の人かと訊ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ。」と彼 (ディオゲーネス)は答えた。
『ギ リシャ哲学者列伝(中)』162頁    

というディオゲネスの有名な問答は彼の追放(もしくは退去)と亡命生活の経験を踏まえ、彼がシノペを追放されて今ではどこのポリスにも属していないことを 表している。その事実をそのままで伝えずにこのように堂々と「世界市民だ。」と答えるのはさすが「犬のディオゲネス」である。彼はまたこうも言っている。

また唯一の正しい国家は世界的な規模のものであること。
『ギリシャ哲学者列伝(中)』170頁    

 この他にも彼は結婚の否定(女性の共有と当然の結論としての子どもの共有)などを主張した。ディオゲネスと同時代の人物にアレクサンドロス大王がいる。 大王 はこのディオゲネスに対して

もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネ スであることを望んだであろうに
『ギリシャ哲学者列伝(中)』137頁   

と言ったと伝えられている。かなり眉唾な話だが、アレクサンドロス大王が生きている時代はディオゲネスの晩 年であり、大王の家庭教師が同じソクラテスの孫弟子であるアリストテレスであったことから、アレクサンドロス大王がこのキュニコス派のディ オゲネスから何らかの思想的影響を受けていた可能性もありうる。実際にアレクサンドロス大王がこのディオゲネスに会って話した逸話も残っている。そのとき も「お前は、余が恐ろしくなのか」と大王に問われて、ディオゲネスは「あなたは善人ですか?それとも悪人ですか?」と聞き返し、大王が「善人だ。」と答え る と「ならば善人を恐れることはないでしょう。」と言いのけている。まさにディオゲネスは「動じない心」(アパテイア)を持つ男だったのだ。もしアレクサン ドロスの「世界的な規模の」帝国がディオゲネスの影響を受けて建設されたとしたら、愉快な話ではある。

なお、デメトリオスは『同名人録』の中で、アレクサンドロスがバビュロンで死んだの と、ディオゲネスがコリントスで死んだのは同じ日であったと述べている。
『ギリシャ哲学者列伝(中)』176頁     

 ともかくこのアレクサンドリアの世界帝国によってギリシャ都市文化は中央アジアまで広まり、共通ギリシャ語(コイネー)が東地中海の広い地域で使用さ れ、 ギリシャとオリエントという当時の西洋の二大文明が融合してヘレニズム文化が生まれた。この文化的土壌の中でスパルタ人やアテネ人、ペルシャ人、テーバイ 人、ペルシャ人などと別れていた人類はだんだんと混淆し始める。こうして東地中海・オリエントにおいてコスモポリタンな世界ができあがってくる。「コスモ ポリタン」と言ってしまえば聞こえはいいが、実際は混沌と混乱の世界である。そこでストア派のゼノンらは、ポリス(都市国家)のそれぞれの慣習法(ノモス)に従うよ りも、世界的な自然法であるロゴス(理性)によって定められた世界共通の法に従って生きるのた方が良い、という思想を唱えた。これが系統立て られた世界市民(コスモポリテース)の思 想の端緒である。自分 の国に他者である異国人が増えてきた。そして彼らが自分の国の慣習法に従わない。そこで「ならば彼らを追い出そう、迫害しよう。」と発想になるのではな く、今までのその国だけで通用してきた慣習法をやめて、普遍的な自然法に解決の道を 見出す、という発想だ。ストア派のロゴスの考えはこの世界が一体化しつつあったヘレニズムという時代 が求めていた思想であるといえる。

われわれの自然(本性)は宇宙万有の自然の部分であるからである。

共通の法(オルトス・コイノス)が―つまりそれは、万物に遍く行きわたっている正しい理性(オルトス・ロゴス)であり、それはまた存在するものを秩序づけ るにあたっての指導者である
『ギリシャ哲学者列伝(中)』274頁     

カン トの世界市民主義

カ ントの「世界市民という視点から 見た普遍史の理念」においても哲学者カントは、人間の歴史という人間の行動の集積に

自然 の意図のようなものがないか、 を調べるしかなくなるのである。人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはでき ないだろうか。
『永 遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』34頁  

と問題提起している。そして自然の 意図に従うならば、人類の理性は永遠平和を希求している。その永遠平和を達成するために国際的 な平和連合を設立しなければならないと彼は主張している。なぜなら人間の素質を人間が発展させて利用するには、発展のための仕事を人間ひとりひとりの個人 では なく、 人類という世界的な次元で行う他はない。というのは人間という生物の寿命が自分の素質を理解するには短か過ぎるので、個人が途中まで 行った理性の仕事を人類が共有して何世代にも渡って継承し、完成させていかなければ理性は発展してはいかないと彼は考えたからだ。カントはこれに続き、人 間 の素質 を完全に展開するために、また膨大な軍事費を浪費する戦争を避けるために平和を希求する「国際的な連合の樹立」を目指し、そこで人間の本来的な素質を発展 させよ う、と述べる。ストア派のように世界的で普遍的な理性があるから全人類はそれに従わなければならない、とするのではなく、カントは人間の中にある素質をお 互いに発展しあうために国際的な国家の連合体を作ろうとしている。これはカントの、人間が互いを人格としてとらえて扱うことで互いの人格を目的として 高めあっていくという「目的の王国」と近い思想なのかもしれない。

 そしてこの目的のために積極的な 理念である世界国家ではなく、消極的な理念の国家連合体を提唱した現実さにカントの理性 は存在する。しかし、「戦争は自然の意図であり、まず戦争を起こし、この戦争によって追われた人間を世界の僻地にまで住まわせることで、人間の居住領域を 拡大 させ、この人間の居住地域の拡大により世界の各地で馬や穀物や塩や鉄などの生活必需品を発見させた。そしてこれにより自然の意図は人間たちにこれらの商品 の交易を行わせ、商業による平和関係を初めて築かせた。そのことで人間に戦争ではなく、生活の維持のために永遠平和を望むように自然の意図が仕向けた 。」というカントの歴史観は自然の意図をまやかしのように使った突飛な考えである。そのことで自然の意図を基調としたカントの世界市民主義には疑念を抱 かざるをえなくなる。だが国家を形成させるための市 民法(国家法)、国家間相互の万民法(国際法)、世界人類を普遍的な人類国家の市民とみなした場合の世界市民法という法 律の三層構造や、常備軍の廃止、軍事国債発行の禁止、内政干渉や敵対行為の禁止などを盛り込んだ平和条項案や政治と道徳の目的を一体化させる記事などは理 想論であっても興 味深いものがある。

文学 の世界市民主義

  ホルへ・ルイス・ボルヘス (1899年-1986年)というアルゼンチンの小説家がいた。彼は汎世界的な小説である「バベルの図書館」「円環の廃墟」 や「二人の王様と二人の迷宮」などの千一夜物語を題材にした短編小説で知られる一方で、ガウチョやブエノスアイレスの裏を描いた「土」の匂いを感じさせる 小説も書いている。彼はアルゼンチンの小説家であるから当然スペイン語で小説を書くのだが、祖母はイングランド人であり、彼の「自伝風エッセー」によれば 幼少時の 父の書庫での読書はスペイン語とイングランド語で行われた。そのためか9歳の時には彼が翻訳したオスカー・ワイルドの『幸福な王子』が日刊紙『エル・パイ ス』に載って、誰もが父親が訳したのだと信じていたという逸話がある。その後1914年には一家でスイスに渡り、ラテン語、フランス語やドイツ語による読 書を始めた。その他イタリア語で『神曲』を繰り返し読んだりもし ていた。しかし彼の言語はやはりスペイン語だった。

しか しスペイン語がわたしにとって 不可避の運命であることは、絶えず自覚していた。
「自 伝風エッセー」『ボルヘスとわ たし』232頁  

 そして自らが属するスペイン語の アルゼンチン 文学の作家と伝統について、ガウチョ詩に触れたあとでこう書いている。

こと さら言うまでもなかろうが、文 学はそれを生んだ国の特質によってその実体を明かされるべきだという考え方は比較的新しいものである。そして作家は自国 の主題を追求すべきだという考え方もまた新しい、恣意的なものである。
「ア ルゼンチン作家と伝統」『論 議』233頁 

ギボ ンは、アラビア的な書物、とり わけ『コーラン』には駱駝は出てこないというのである。(中略)そしてマホメットはアラビア人だったので、駱駝が特にア ラビア的であることを確認しなければならない理由はなかった。彼にとってはそれが現実の一部であったので、それを際立たせなければならない理由はなかっ た。(中略)私はわれわれアルゼンチン人もマホメットのようになれると、つまり、地方色を多用することなくアルゼンチン人になる可能性を信じることができ る と思っている。
「ア ルゼンチン作家と伝統」『論 議』234頁 

 シェイクスピアの劇の舞台はどこ であったのだろうか?デンマーク、ヴェニス、ヴェローナ、スコットランド、アテネ、ローマ・・・、そのほとんどがイングランドでは無かった。それでも彼は 英文学 を代表する作家である。小説や物語 の題材がたとえコスモポリタンなものや外国 のものであってもその作家が優れた作家であれば、小説はその記述言語の共同体の特徴を出す、というのがボルヘスの主張である。村上春樹の小説は日本が主な 舞台だ が、日本を際立たせるもの(寿司、富士山、桜、芸者、着物)はほとんど出てこない。彼が題材にするのはアメリカ連合州の音楽や文化、小説であり、彼の本は 世界の多 くの国 で読まれている。しかしだからといって村上春樹はコスモポリタンな作家とは思えない。彼はあくまでも日本的過ぎるくらいに日本的な作家である。コスモポリ タ ンな小説というのは真に土着的な文学なのである。


私の 世界市民主義

  まず歴史 上の世界市民(コスモポリタン)が「郷土を喪失した人間」であることを あらかじめ言っておく。ディオゲネスがまず追放者であったし、私が随時増加していく予定のコ スモポリ タン列伝でもそのほとんど を郷土喪失体験をした人間が名を連ねている、あるいは連ねるようにしている。中には望んでそうなった者もいるが、多くの コスモポリタンは自分の望まぬ理由や、やむにやまれぬ事情によりコスモポリタンとなっている。なるほど「私は世界市民です。」という言葉に人は何かしら憧 れを抱かざるをえない。その憧れはその人が負っているだろう世界と言うものの広大さとその自由さ、そして自足できる逞しさに由来する。しかし実際は、コス モポリタンとは祖国や都市、共同体、暖かい囲炉裏を失った悲しさや寂しさを胸内に秘めた人間のことであった。国家や共同体、家族の中でぬくぬくと育った人 間が望んでなるような生き方ではなかったのだ。

世界 市民になるということは、しばしば孤独な営為である。
『国 を愛するということ』37頁     

 では、まず世界市民主義で何を目 指すのだろうか?ストア派は多様になった社会に規律と秩序とを与えるためにロゴスに基く世界共通法である自然法を定めよ うとした。そしてその自然法を制定するために世界国家の必要性を説いた。またカントは人類が本来持っている素質を高めあうために国家の連合体の結成を説い た。では私の世界市民主義とはストア派やカントのような思想なのだろうか?それとも歴史上のコスモポリタンのような郷土を追われた人間を増やすための、郷 土へ向ける目を持たない非情な思想 なのだろうか?いや違う。確かに私の世界市民主義は理性や人間の素質といったものに関係がないし、精神的な理念や宗教的な信念を含んでもいない。ましてや 追放者を増やそうとなどとは考えていない。しかし目的はある。それはこの 世界におけ る 言語的な不平等を解消するという目的である。人種の違いは混血によって簡単に変化しうる ものであるから、そして思考は常に言語で行われることから、言語は人間が自分の存在を意識する ための大きな要素となっている。また、暖かい囲炉裏に囲まれた共同体は同じ言語集団の同じ言語による会話によって成立しているために言語は愛郷心感情の基 幹となるものである。そしてその言語はたとえどんな話者が少ない言語であっても、どんな僻地の言語であっても平等であるはずである。

 しかし現在の世界では いくつかの国家を中心として、その旧植民地や経済的・政治的・軍事的影響を受けている国々を辺境とする言語帝国が幾つか存在する。それは、中央の民族語を 根幹に置く言語の帝国であり、帝国の中央にいる人間がその帝国言語を自民族語とすることで富や権力、利益を得るための帝国である。帝国の辺境にある人間 は自民族語の他に帝国言語を習得しなければならず、また辺境にある言語集団が一つの国家も成していない小さな規模のものであればその言語の存在が消滅の危 機にさらされているこ ともある。まさに格差の帝国である。かつての日本もそんな日本語帝国を、「大東亜共栄圏」という名において朝鮮、台湾、中国本土や東南アジアに拡大し ようとしていた。このような言語帝国の機能は必然的に中央と辺境を明確に分断し、言語の不平等を生んでしまう。特に帝国の辺境では社会的・学問的な地位や 職業が個人の能力ではなく、言語帝国内で機能する帝国言語の運用能力に起因する といった弊害も出てくる。そうなれば少数言語集団の中には生活のために辺境言語の学習を止めて帝国言語を自民族語として学習するようになる者も出てくるだ ろう。これは実 際に起こりつつあることである。そうなれば辺境 言語は勢力の弱いものから次々と消滅していく。だからこういった言語 帝国は解消されなければならない。そして言語帝国の再発を防止するために世界市民主義を採用するのである。
言語帝国主義構造地図

 世界市民主義を達成するためには 世界国家を建設する積極的な方法と現状の国際連合を活用する消極的な方法の2通りの手段がある。カントがあきらめたよう に積極的な世界国家の建設はとても難しい。なぜなら、もし世界国家を目指そうとすれば、力の原理によってある超大国が世界を征服してその国の主導の下での 世界国家 を形成するのが最も手っ取り早い方法だからだ。そもそも各国家が自立的にその主権や国境を捨てて世界国家へと統合するのは困難だろうし、非現実的である。 そのことはヨーロッパ連合(EU)の政治的統合の様子を見ても明らかである。そして超大国による世界征服が、たとえそれが「自由」や「正義」、そして「八 紘一宇」などの美名を謳っていたとしても、そのようにして建設された世界国家は、まさにカントの言う「世界王国」にあたる。

 統 治の範囲が広がりすぎると、法はその威力を失ってしまうものであり、魂のない専制 政治が生まれ、この専制は善の芽をつみとるだけでなく、結局は無政府状態に陥るからだ。
『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』208頁  

 もしその世界王国を政府が無政府 状態ではない形で維持しようとなると小説『1984年』に登場する超国家オセアニアのような管理社会にならざるをえない だろう。おまけに世界国家にはどうしても「国家」である以上、世界規模でなんらかの中心とその周辺の辺境が存在してしまう。なので世界市民主義達成のため の枠組みとし ては第2の方法である、既存の国際連合を利用する方法しかない。しかし国際連合の公用語はイングランド語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、ア ラ ビア語であり、それらはいずれも言語帝国を成している大言語であって、現在の国際連合では言語帝国を維持するためにこそなれ、解消するためにはならな い。そのためその国家にも属していないまさに国と国の間、国際にあるエスペラントを、民族と民族の間、族際にあるエスペラントを国際連合の唯一の共通語と して採用する必要がある。

 エスペラントを国際連合の唯一の 共通語として採用することで、人類の言語が統一されてしまうことがないのだろうか?と危惧する人もいるだろう。逆にもし全人類の言葉が統一されたとすれ ば、全人類の意思の疎通が簡単になり、その結果としてお互いを理解しあい、戦争の無い平和な世界を築けるかもしれな いと夢想する人もいるかもしれない。実際にエスペラントを擁護する人の中にはザメンホフの人類人主義(ホマラニスモ)を中心にそのように全人類の言語をエ スペラントで統一しようという意見を持っている人もいる。しかし世界市民主義を掲げる私は彼らに同調し、人類の言語を統一するためにエスペラントを擁護し ているのではな い。

コス モポリタニズムの理想は人間の文化、言語、生活形式の多様性を積極的に喜ぶ、とい うことを含んでいる。
世界市民主義の諸原則は、このように、人々の多様性に価値を認める。
『国を愛するということ』221頁    
 また一九九六年の世界エスペラント大会で採択された 「プラハ宣言」にもこうある。

La naciaj registaroj emas konsideri la grandan diversecon de lingvoj en la mondo kiel baron al komunikado kaj evoluigo. Por la Esperanto-komunumo, tamen, la lingva diverseco estas konstanta kaj nemalhavebla fonto de riĉeco.
諸国の政府は世界における言語の大いなる多様性を、意思伝達と発展の障壁として見なす傾向にある。エスペラントの共同体にとっては、しかしながら言語の多 様性は不変にして不可欠な、(言語の)豊穣さの源泉である。

 これと同じように私の世界市民主義は人々の言語や文化の多様性を認めるためにエスペラントを採用する。エスペラントに中心を置くという事は特定の国家や 民族に 中心を置かない、ということであり、全ての言語をエスペラントと等距離に置くことができる。そうすることでかつて言語帝国の辺境にいた民族が自分達の言語 に注目で きる余裕を与えることができるのである。もし簡単に習得できるエスペラントが国際語であるならば、旧帝国言語を敢えて初等教育から採用する必要もない し、いくら自分達の言語が少数言語であっても、エスペラントを知ってると他者と意志伝達ができるのであれば自らの少数言語を学習する価値を見出すこともで きるだろ う。またエスペラントがあるのだから世界と競争する利便を図るために自分達の言語や文字に改造を加え簡体字や新字体を設ける必要もなくなるだろう。このよ うに世界に普遍的な一つの族際語 を採用することで、逆に自分が所属する共同体を意識し、またより小さな共同体を見出し、尊重できる契機にも なるのである。しかし、とは言え一つの族際語 を採用する世界市民主義が世界の多様性を保つこととは矛盾している、と思うかもしれない。だが、下のような意見もある。

われわれは愛国主義か普遍的理性かを選択する必要はない。批判的知性と自分の伝統(国 家及び民族の伝統を含む)における最善のものへとの忠誠とは相互依存的なのである。
ヒラリー・パトナム「われわれは愛国主義か普遍的理性かを選ばねばならないのか」『国 を愛するということ』162頁 

普遍的な任務が、当時また、人間の内心に国民的な理念をもえたたせる手助けをしたのである(中略)真のそして最上のドイツ国民感情とは、超国民的な人間性 という世界主義的な理想をも含むものである。
『世界市民主義と国民国家T』18〜19頁 

従って個体が郷土的、地域的特質と独自性をさらに深化しながらも、この頂きをば普遍的、人間性の領域までをも聳えたたしめることによって、世界への貢献 が、生成過程の人類への寄与が可能になるのである。 
『世界主義思想の研究』773〜774頁 

 このように世界市民主義の持つ普遍的な理性や任務、そして批判的知性というものは、大いに愛心(愛心 ではなく、言語共同体である土への愛)の形成に関係する。すなわち エスペラントという、民族 語支 配に批判的な言語を世界の族際語として採用したとしても、諸民族の諸民族語に対する人類の愛着や馴染み深さは損なわれるばかりか、逆に言語帝国に対抗す るために相互に助け合って 族際語と民族語という二言語制を保つことができるのだ。そのために、この世界市民主義では、現状の国家を基盤とする国際連合による国際主義からの脱却を図 らなければならない。なぜなら国家は民族と決して等しいものではなく、国家と郷土とは必ずしも等しいものではないからだ。むしろ国家の中に 多くの民 族が含まれている方が多い。そのために国際主義によって国家の枠組みを重視しす ぎると必然的に言語や民族の少数派 が生まれてしまう。しかし 現在の国家の枠組みはそう簡単には崩れないだろう。だからこそ、世界市民主義による族際語エスペラントとの対称によって、民族語によってまとまった擬似国 家たる言語共同体の存在を際立 たせていかなければならない。ゆくゆくは言語共同体が成長すれば、その言語による団結心と愛郷心によって、言語共同体が国家に取って代わることもありうる だろう。

 言語帝国主義も当然のことながら自分の言語への愛着とその言語共同体への愛郷心を原動力とする。しかし同時に帝国主義は自分達の共同体を失うばかりか、 愛すべき対象である言語を失う結果にもなる。 拡大し 世界 中に散らばった帝国言語は当然のことながらやがて辺境の集団をも共同体に取り組んでいく。中央の人間は、それら辺境の新参者を同じ共同体の人間とすること をなかなか認 めたがらない。過激な保守派は自分たちの共同体の代表サッカーチームがほとんど黒い肌の新参者で占められていることを歯痒く思うことだろう。たとえその共 同体 のサッカーの英雄が、辺境出身の新参者であったとしても、である。しかしそれは言語帝国主義がもたらす当然の結果である。帝国言語が共有され共同体が拡大 することで、元からいた中央の人間はそのことを誇りに思う反面、その帝国言語を他の共同体の人間が自民族語とすることに焦燥を隠せないのだ。しかし言語帝 国に組み込まれてしまった以上、辺境言語を自民族語として習得するよりも帝国言語を自民族語として習得した方が遙かに有利なのだから、辺境の人間が帝国言 語を習得して共同 体に入り込むのは当然の権利である。中央の人間の焦燥は彼らの我儘や傲慢に過ぎ ない。やがてその焦燥は共同体が新参者に数の力で乗っ取られた時にはじめて後悔へと変わるだろう。しかしエスペラントを共通語として置き、その周囲に言語 共同体を おいた世界では、他の共同体の言語を習得する人間は生活のためではなく単純に文化的・文学的興味のために学習するようになるだろう。そうすればかつての言 語 帝国のときのような自分の共同体の崩壊は避けられるし、文化的興味を向けられた、という名誉も与えられる。このように言語帝国主義は結果として愛郷心と対立せざるをえなくなる。そして言語への愛はエス ペラント による世界市民主義と結びついた方が愛をより元の形で保つことが出来る のである


 つまり私の掲げる世界市民主義とは全ての人類を、エスペラントを使用して世界を舞 台とする孤独な世界市民としての立場と、民族語を使用して自民族の共同体を舞台とする愛郷者としての立場とを併せ持ち、舞台によってそれを切り替えること のでき る人間にすることである。それは同時に人類を孤独なコスモポリタンにするのではなく、そして排外主義的な愛郷者にするのでもなく。自分の共 同体の伝統や慣習を尊重することができるが故に他の共同体の伝統や慣習をも尊重できる世界市民、そして自分の共同体に深い愛を注ぐが故に他の共同体にも深 い愛を注ぐことができる世界市民、自分の共同体の利益を主張できるが故に他の共同体の利益も考慮できる世界市民にするのである。すなわち愛郷主義であるが故に世界市民主義なのだ。自分の共同体だけを愛する愛郷主義と 世界人類を愛する世界市民主義、この一見して対立するかのように見える思想を、その向かうべき理想が同じことを利用して合一化してしまえる。なぜならそれ らは本来、依存しあわなければならない思想だからだ。
エスペラント世界市民主義構造地図

 最後に、今まで述べた世界市民主義と、現在世界規模で急速に進行している経済的な全地球化(グローバリぜーション)を目論む地球主義(グローバリズム) とは分けて考えるべきである、ということを述べる。地球主義とは資本主義を旨とし地球を一個の市場と見なす経済本位の考え方である。この地球主義が期待す るのは多国籍企業の販 売成績の向上と市場の地球的統一であり、民族の伝統や独自性は市場原理に反するものであれば除外され、少数派は黙殺されてしまう。地球主義は国境や 国家を不要な存在と見なすのでやがて各共同体の機能はそれら企業の要請により縮小し、各民族は画一化された商品を手にすることで独自性や個性を失い、愛郷 主義は地球主義に歯向かう、矮小で卑劣な前世紀の精神としてけなされるであろう。各共同体の工業や農業も 多国籍企業の製品や食品によって打撃を受ける。これが地球規模で進行すればアニメ「OVERMANキングゲイナー」の世界のように大企業(シベリア鉄道) によって運 輸された食品や製品を買わなければ生活できない民族が増え、企業に民族の生殺与奪の権を奪われたために市場原理によっ て民族の動向が左右される時代が来るかもしれない。それは人類が大企業の商品 を生きるために買い続け、企業も利益を得るためにこれらの 人類を生かしておく世界である。または人類に商品を選ぶ権利は無く、企業に見捨てられれば死ぬほかは無い世界である。これはどこか牧場主 (大企業)と家畜(人 類)の関係に似ている。また、これは世界市民主義が意図する道徳的な人類社会とは相反するものである。すなわち地球主義とは愛郷主義とは相反する思想であ り、世界市民主義の理想にもそぐわない思想なのだ。もし一旦この地球主義的大企業による世界支配が成さ れてしまえば、そこ から抜け出すには 「OVERMANキングゲイナー」の主人公ゲイナー・サンガやサラ・コダマを含めたウルグスクの民たちのように、シベリア鉄道の支配からエクソダス(脱 出)しなければならなくなる。進行する地球主義からのエクソダスは“郷土”の喪失で あるから、まさにエクソダス主義者は世界市民 主義者 である。おまけに彼らのエクソダスの行き着く先はヤーパンという名の故郷であるから、エクソダス主義とは帰郷主義、愛郷主義なのだ。ここでも世界市民主義 は愛郷主 義と連結する。なぜなら世界市民主義も愛 郷主義 もいずれも反・地球主義という点では似ているからだ。また、地球主義が世界市民主義の仮面を被ってこの地球のあちこちに蔓延るのを防ぎ、立ち向かう力を獲 得す るために は、複数の土着的な愛郷主義が超共同体的な世界市民主義によって連結しあわなければならないだろう。もし、そこで愛郷主義が世界市民主義を、それと非常に 似ている地球主義と混同してしまい迫害したとしたら、世界市民主義と愛郷主義の両者にとってその不仲は大きな損失となる。
私は、言語についてではな く、この地球主義との戦いの時に初めて世界市民主義と愛郷主義は手を携えることになるような気がしてならない。

 最後に。宇宙人(コスモポリタン)にして愛國者、翁久充の言葉を引用してこの『世界市民主義』についての私の見解を締めさせていただく。

自分の國のみを愛する者は全世界を愛しない者だ。金のみを愛する者は全人類の生活を愛 しない者だ。
『コスモポリタンはかたる』178頁      


Barkituro

*参照頁
情報・批評空間
コスモポリタン列伝


【参考文献】
富野由悠季監督、アニメ「OVERMAN キングゲイナー」、2003。

翁久充著、『コスモポリタンはかたる』、聚英閣、1928。
フ リードリッヒ・マイネッケ著、 『世界市民主義と国民国家T』、矢田俊隆訳、岩波書店、1968
古館喜代治著、『世界主義思想の研究』、弘文堂、1972。
ディオゲネス・ラエルティオス著、 『ギリシャ哲学者列伝(中)』、加来彰俊訳、岩波書店(岩波文庫)、1997。
マーサ・クレイバン・ヌスバウム 著、『国を愛するということ』、辰巳伸知訳、人文書院、2000。
ホルへ・ルイス・ボルヘス著、『論 議』、牛島信明訳、国書刊行会、2000。
ホルへ・ルイス・ボルヘス著、『ボ ルヘスとわたし―自撰短篇集』、牛島 信明訳、筑摩書房(ちくま文庫)、2003。
峰島旭雄著、『概説西洋哲学史』、 ミネルヴァ書房、2004。
カント著、『永 遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』、中山 元訳、2006。

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