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エスペラント
Informo kaj kritiko
Esperanto
la japana lingvo

記事の続きはおおむねOKULO 「語学カテゴリー」に引き継ぎました。

2007年4月19日 悩み

 私は、世界の作家ではカレル・チャペック(Karel Čapek)、ジャンニ・ロダーリ(Gianni Rodari)とホルへ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)が好きだ。だからと言ってチェコ語とイタリア語とスペイン語をやろう!と考えると第二外国語がフランス語の私は少し眩暈がしてくる。千一夜 物語を原文で読むためにアラビア語もやっていたしね。好きな作家が一つの国にまとまっていない人へ、そんな言語の眩暈がしたらエスペラントがよく効きま す。

2007年4月8日 統一地方選挙

おーい石原君」なだいな だ、2007年4月号『ちくま』 (筑摩書房)。
 nada y nadaのなだいなだ氏はかなり語学に堪能なようだ。しかし、なだいなだ氏が言うように石原慎太郎氏は「英語に国際語の資格がある。」などとは考えていな い。石原氏は「英語は世界でかなり使われている。しかし英語はちゃんと話せなくてもいい。フランス語は難しすぎるからやらなくていい。」と考えているの だ。(「Informo kaj kritiko 3月17日」を参照。)石原氏は英語の現状を認めているだけで、無意識ながらも国際語と民族語(文化)の違いを理解している。ただ、石原氏はエスペラント についてはその概要しか知らないのだろう。ちゃんとエスペラントについて説明すれば東京都でエスペラントを推進してくれるかもしれない。まあ今日の都知事 選の結果次第だけど。ともかく、ただ批判するだけではなく、もう少し友好的になってもいいのではないか?

2007年4月4日 スローフードとエスペラント

スローフード運動が唱える食文化の維持の思想とエスペラント運動の言語文化に対する思想とは繋がる。いずれもファーストフードや英語などの「文明」の隠れ 蓑を被った文化の押し売りに対抗するための思想だ。
 Slow food スローフードジャパン

2007年3月27日 文明と文化、試論

 文明とは何か?文化とは何か?文化を英語で書くと「culture」であり、原義は「耕されたところ」。磨いたり、洗練させたりしたものという意味があ る。文明は「civilization」であり、原義は「礼儀正しくしたもの」。物質的な生活様式などを指す。文化をアラビア語では「ثقافة」と書き 語根は「見つける、(意図して)出会う」という意味で、文化とは自分で探し発見するものだ。文明をアラビア語では「حضارة」と書き語根は「現れる、来 る」といった意味で、文明とは勝手に向こうからやってくるものだ。

 文化とは民族、集団、風土に固有のものでそれらの拠り所となるものであり、その独自性そのものである。文明とは複数の民族や人類全体の利便のために使用 される技術や叡智であり、その普遍性そのものである。と私は考える。慣習、衣服、言語、神話、芸術、料理などは文化である。国際法、羅針盤、活版印刷、車 輪、火薬、金属 精錬、コンクリート、軍事技術などは文明である。しかし、建築はその風土にあったものが造られるけれど、建築技術や材料は文明に属する。芸術もその民族や 集団に固有のものが描かれ、彫られるけれど材料や技法は文明に属する。文明は文化を補助し、文化は文明を活用する。このことを建築家・黒川紀章は「共生」 と呼んだ。文明が文化を除去すれば、地球のどこへ行っても同じ風景が広がることだろう。文化は人間が人類という大きな枠組みから外れるために必要であり、 その多様性にこそ価値がある。

 現在、文明が統合され、地球規模の“人類文明”にまで発展し、その文明に付随したアメリカ合衆国の文化が他の文化に侵入している。世界のどこに行っても 同じような洋服が着られ、観光用や商業のために英語たフランス語が話され、大都市にはマクドナルドがあり、どこの大都市でもハリウッドの映画を見ることが できる。高層ビルはどこも似たり寄ったりだ。繊維加工技術、言語学、食品加工技術、撮影技術、建築技術などの文明は人類が必要とするものだ。しかし、その 文明に付随した文化は、他者の文化でしかない。しかしアメリカ文化が“文明”の仮面を被って地球上に蔓延っている。人類は文明と文化とを分化しなければな らない。

 私は、エスペラントは文化を持ってはならないと考える。エスペラントを使うためにはこれを文化の拠り所ではなく、文明に属するものとしなければならな い。火薬も活版印刷もどこかの国の誰かが発明したものだけれど、すでにそれらは人類の文明である。エスペラントもどこかの国の誰かが発明したものである。 しかし誰の母国語でもない。これだけがエスペラントの唯一の利点である。母国語話者無き言語、つまり文化を持たない「エスペラント」こそが人類文明の言語 たる資格を持つ。多くの母国語話者を抱える英語やフランス語、中国語にはその資格がない。

2007年3月17日 東京都知事選立候補予定者とエスペラント

●前東京都知事石原慎太郎氏はかつて「フランス語発言」で話題になった。フランス、フランス語、フラン ス語圏に関する石原語録から抜粋してみよう。

〔英語教育など〕いったいどれだけ時間をかけて、どれだけの効果が上がるの。私も小学 生のときに、親父に言われて、自分の卒業した幼稚園のドイツ人の宣教師に英語を習いにいってましたけどね。なんの効果もなかったね。それよりも国語の教育 をちゃんとやったほうがいいよ。

英語なんてのはいい加減に使ったっていいんだよ、通じるんだよ。英語ってのはかなりいい加減な言葉だから、文法にもそれほど詳しくない。例えば "Long time no see." って「久しぶり」ですね。あんなの、言葉を並べただけで、慣用句にもなってないでしょ。それが通じるんだからね。一番いいのは、イギリス人も真似してやっ たらいいんだけど、南太平洋で流行ってるピジョン・イングリッシュ、鳩の英語。あれが一番簡単だよ。 "I go Tokyo three day." 「私は東京へ行く」。"three day past" って言ったら「三日前に行った」。"I go Tokyo three day future." って言ったら三日後に行くんだよ。エスペラントみたいに実に簡単 でね。英語なんてその程度でいいんだよ。

私はフランス語昔やりましたが、数勘定できない言葉ですからね、これはやっぱり国際語として失格しているのもむべなるかなという気がする

石原氏はエスペラントに好感を持っている。(というか学習経験があるのか?)そして国語(それが日本語だけを指すとしたら残念だが)の教育を優先させると いう点でエスペラント肯定派である。ちなみにささいなことだが、フラ ンス語が「国際語として失格」なのは数勘定できないからではなく、民族語だからだ。石原都知事は民族語としてのフランス語やそのフランス文化を批判してい るわけではなく、国際語あるいは外国語としてのフランス語を批判している。石原都知事のフランス語発言 に抗議する会フランス語こそが国際語たるべしなど と考えているのではないのだろうか?そうでないならば反論する必要は無い。私は特に石原氏の発言は問題のある発言だとは思えない。

フ ランス語は数を勘定できない言葉?国際語として失格している?
石原都知事、フランス語発言の撤回を求めます!
あなたもこの裁判にぜひ参加してください

フランス語は国際語として失格しています。だって、フランス 語はすばらしいフランス文化と歴史と伝統とを持っているのだから。

黒川紀章氏のマニ フェストにはこう書かれている。

7) 教育・研究拠点としての東京をつくる
 c.国際東京大学(現・首都大学東京)での講義の1/2を英語とし、 世界の優秀な学生を集める。又、教職員の給与を改善する。

また、La Revuo OrientaEsperanto, la lingvo internacia)によれば彼は「エスペラント反対運動」を唱えているという。一見エスペラント反対派かのように見えるけれど 「共生の思想」はエスペラントの世界観と一致する。だから黒川氏はエスペラントを知 らないエスペラント肯定派と言っていいだろう。つけくわえると佐藤勝一氏の「少なくとも「ヨーロッパ語」の特質はちゃんと備えていることを 無視できないのである。」という文は肯定できない。なぜなら言語の坩堝とも言えるヨーロッパ大陸においてヨーロッパ語という総体は存在し得ないからだ。

他の候補、浅野史郎氏や吉田万三氏には評価すべき点は今のところ無い。現時点では、私は石原都政を応援している。

2007年2月18日 近代デジタルライブラリー

国会図書館近代デジタルライブラリー
「分類で検索」>「8.語学」>「86.南欧諸語.エスペラント語」
で長谷川二葉亭(二葉亭四迷)の『世界語』などのエスペラント関連書籍を読むことができる。ただし「8.語学」>「89.その他諸国語」にもわざわざ『世 界語読 本』(エスペラントの教科書)が一冊だけ収蔵されている。これはなぜだろう、何を間違えたのだろう?私の意見としては「89.その他諸国語」を「89.国 際補助語」 に改称して、エスペラントなどはこちらにまとめるべきだと考える。

2007年1月31日 『論 争・英語が公用語になる日

(1)国際補助言語エスペラント
 エスペラント運動は今でも続いているが、以前のような熱気は感じられない。一方かつて「危険な言語」というレッテルが貼られ、日本でも特高の捜査対象に なったような思想的背景は、拭い去られた。エスペラントは民族のアイデンティティーのよすがとして利用されがちな言語から、離脱しようとした。創始者ザメ ンホフはポーランドの眼科医だが、差別される側のユダヤ人であったことが、象徴的である。また(言語を手がかりとした)民族自決が唱えられた当時の国際政 治情勢も考慮されるべきである。
 エスペラントには母語の話し手がいない(実際にはエスペラントを話す夫婦のもとで母語として身につけたこどもがいるが、地域社会としては存在しない)。 そのために国際補助語としては全員に不利である。フランス語や英語のような 自然言語を採用した場合に、母語話者だけが有利になるという事態は避けられる。しかし悪平等ともいえる。
 エスペラントは有志のみに普及する形で、国家的言語サービスを要求しなかった。その点、言語経済学的にいうと、国家予算としてのコストはゼロで、普及した。エ スペラントで外国の同志との交流のできた人にとっては、コスト・パフォーマンスのよい言語だった。井上史雄著「公用語の必要経費」(二百十二頁〜二百十三 頁)

 立川健二著「英語批判の手前で」は、人工言語運動が民族語起源の国際語の谷間に起こっていること。エスペラントが英語などの民族語などに比べて情報量や 政治力に劣ること、を指摘しつつ

 エスペランチストは、エスペラントそのものに拘泥すべきではない。エスペラントが学 習に容易な、優れた言語であることをいかに力説しても、世界の人々は 英語を学びつづけるにちがいない。それに、言語の優劣を論じること自体、「言語帝国主義」の論理に陥ることではないか。(二百八十八頁)

 と述べている。大いに賛同できる。学習に容易であることではなく、人工語であることこそが国際語としての条件である。それはどの民族語でも満たしてない 条件であり、エスペラントがそれを満たしている。また、ザメンホフの思想でも良いが、エスペラントにはエスペランティスト独自の言語世界観が必要である。 そしてその言語世界観を世界の人々に主張していかなければならない。

2007年1月25日 「国際英語って?」

学科長斉藤紀代子女史
 フランス・スペイン旅行の話をした後で。

 こんな風に海外に行くと、やっぱり英語は「国際語だなー」と思わずにはいられません。はじめて行く国で、 その国の言葉をあまり知らなくても、英語が話せれば、ま、何とか生きていける、と気持ちが楽になるのも英語が国際的にコミュニケーションの道具になってい るからでしょう。英語のアルファベットは、どこの国でも氾濫しています。ちょうど、絵文字のサインのようです。日本に、海外から友達がやって来て「英語が通じなくてびっくりした」などと言うのを「日本語を 勉強してから来い!」といつも思っていたのですが、時代がそうなっているのです。それがいいか悪いかは別にして。私の若いころはまだ、エス ペラント語を!などと頑張っている人がたくさんいたのですが、エスペラント は人工語で、人工語はやはり力と言うか、エネルギーに欠けるので、生き延びることは出来なかったのではないでしょうか?

 エスペラントは生き延びている。そして文化的な力、民族的な力が無い言語だからこそ国際語(民際語・族際語)たるべきなのだ。女子教育ではこのように世 界の情勢、日本の潮流に流された学問のありかたが必要なのかもしれない。しかし大学であるならば、現状に批判的な見方を持つことができる女性を育てるべき だ。

梅 花女子大学文化表現学部国際英語学科

2007年1月22日 イラク人の言語権

〔朝日新聞1月22日朝刊14版4面、吉岡一記者〕
バグダッド西部のスンニ派地区ガザリヤで米軍に自宅を接収された元イラク軍士官サアディ・アブドゥルラザク氏が朝日新聞バグダッド支局のイラク人助手に証 言したもの。

 今月8日、幹部らしい米兵が自宅に現れた。「軍事拠点を置くことになった。月千jで 貸して欲しい」。サアディ氏自宅を含む6軒と、周囲の空き地、計約1.5平方`を接収するという。
 他の5軒は空き家だったが、サアディ氏は家族8人と踏みとどまってきた。明け渡すと、米軍協力者として武装勢力に殺される。そう考えたサアディ氏は断っ た。
 ブッシュ大統領が増派を発表した10日、また米兵が現れた。「お前は空き家を不法占拠しているだけだろう。月100jで貸せ」。所有権を示す書類を見せ ると「英語でもないこんな書類がなんだ」とすごまれた。

 バグダード(بغداد)を英語風にバグダッドと表記するのも良い。イラク戦争だって戦争は外交の一手段だから、いかなる理由で始めようがこれも良しと しよう。 軍事拠点を置くために民家を接収するのも、戦争なのだから致し方の無いことだ。しかし、バグダードはイラク国の首都であり、イラクの公用語はアラビア語と クルド語である。当然、公文書はアラビア語やクルド語で書かれていて当然である。だからサアディ氏の「所有権を示す書類」もたぶんアラビア語で書かれてい たのだろ う。それを「英語でもないこんな書類」とはどういった趣旨の発言だろう。そこは紐育市ではないのだ、イラクの首都バグダードなのだ。それでも英語でなけれ ば書類で はないとでも言うのだろうか?

イラク政府公式ホームページ

2007年1月17日 世界会議

 ボルヘスの短編「会議」に出てくるエスペラントの記述である。世界会議の 蔵書にはあらゆる言語の書物が必要、ということで主人公が言語を探求しにロンドンの大英 図書館に行った場面である。

朝に夕にその図書館に通った。世界語も見落とさなかった。エスペラント、すなわちルゴーネス(アルゼンチンのモダニズム詩人)が『感傷的な暦』 のなかで 「公平、単純、かつ経済的」と形容した言語のほかにも、動詞を変化させたり、名詞を活用させたりして、あらゆる言語的可能性を試みようとし たボラピュック (一八七九年頃、ドイツ人、ヨハン・M・シュライヤーの案出した世界語)ものぞいてみた。幾世紀を経ても、なお、永続してやまないノスタルジアの対象であ るラテン語の復活についても、賛否両論を検討してみた。わたしは、また、各語の定義は、それを綴る文字にあるとする、ジョン・ウィルキンスの分析的言語の 調査にも、時間を費やした。わたしがビアトリスを知ったのは、この図書館の閲覧室の高い円天井の下だった。(五十二頁)「会議」『砂 の本

*ルゴーネスLeopold Lugones :1874-1938。

2007年1月16日 追那語

 納都花丸の架空戦記『蒼海訣戰』に出てくる追那(オイナ)人は猫耳民族で あるけれど、どこからどう見てもその民族衣装はアイヌ民族のそれであり、追那=オイナOinaはアイヌAinuに由来するとしか考えられない。そこで劇中 の「追那語」とアイヌ語を比較してみた。左端が「追那語」で「←」の右がアイヌ語である。

フチ:お祖母ちゃん ←フチ:おばあさん(白老ではフッチ)
シサム:秋津人 ←シサム:和人
アチャ:父 ←アチャ:父(様似。白老ではミチ。アチャポが「おじさん」になる方言もある。)
ハポ:母 ←ハポ:母、お母さん
カリンパニ:桜花 ←カリンパニ:桜、もしくは桜の樹皮、桜皮を巻いたもの
オイナ:追那 ←オイナ:物語る。巫術、巫術を行うが原義。

オイナ・カムイとは「託宣する神」という意味だという。オイナに「巫術」のような原義があったとは驚きである。それは追那人の能力「カムイサシミ」と通じ ると ころがある。そこまで納都花丸は設定として考えていたのだろうか?

蒼 海訣戰 1 (1) IDコミックス REXコミックス
蒼 海訣戰 第2巻
ア イヌ語は生きている 改訂版―ことばの魂の復権
角館樺細工浪漫 八柳(桜 皮細工)

アイヌ語の語彙集・辞典(オンライン)
様似のアイ ヌ語語彙集
<私家版> 沙流版アイヌ語辞典
<私家版 >浦河アイヌ語辞典
白老のアイヌ語単語集
ア イヌ語辞典

カムイミンタラ 北海道樺太のアイヌ語地名

2007年1月14日ボルヘスの言語「トレーン祖語」

次はホルへ・ルイス・ボルヘスの『伝 奇集』「ト レーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の一節である。トレーンという架空世界の言語についての記述である。

彼らにとって世界とは宇宙における物質の集合体ではない。それは個々の行為の異質的 連鎖である。それは連続的で時間的であり、空間的ではない。 「現在の」言葉や方言が派生してきたと推定されるトレーンの祖語には名詞と いうものがない。副詞と等価の、単音節の接尾語(または接頭語)に修飾される非人称動詞がある。たとえば「月」に当たる言葉はなくて、英語 でいえば、さしずめ「月する」または「月にする」に当たる動詞はある。「月は川の上に昇った。」は≪hlör u fang axaxaxas mlö≫―つまり「流れるものの後ろから上方にそれは月した。」となる。(十四頁)

 これは南半球の言語だという。この言語はエスペラントで言えば名詞 語尾-oの無い言語である。「luno」月(名詞)がなく、「luni」月する(動詞 不定形)や「luniĝi」月にする(動詞不定形)がある言語を想定すればいい。なぜならこの世界には名詞で表現されるような事物や事象は存在せず、それ らは常に流動し変動していくものだからだ。こういった世界の人間と物質主義の我々の間では、言語決定論によれば、世界観の共有は難しいらしい。さてどうだ ろう?ち なみに≪hlör u fang axaxaxas mlö≫の後半部分≪Axaxaxas mlö≫はボルヘスの別の短編「バベルの図書館」の本の題名の一例として出てくる。この謎めいた文の五つの単語の意味は、スペイン語の原文「hacia arriba detrás duraderofluir luneció」を参考にすれば、「hlör」向かって(前置詞)、 「u」上方(副詞)、「 fang」後ろ(前置詞)、 「axaxaxas」永続的に流れる(動詞不定形)、「 mlö」月した(動詞過去形)となる。だから日本語に訳するとすれば「上方に向かって、流れ続けるの後ろで月した。」となる。篠田訳はたぶん英訳の 「Upward, behind the onstreaming it mooned.」に引かれてしまったのだろう。この文で「それ」などという指示代名詞は無粋だし、「それ」が指示すべきものは存在しない。

 また、驚くべきは北半球の言語である。

基礎的な単位は動詞ではなく、単音節の形容詞である。名詞は形容詞の集積によって形成される。彼らは月とは言わないで、「暗 い上の―丸い―淡い―明るい」とか「空の―青白い―オレンジ色」とか、そういった組み合わせを使う。(十四頁)

 そのため、この世界の「名詞」は偶発的で、空間、時間、感覚、話者、話し手と聞き手の関係の変化によって無限に作られる。同じ事物であっても形容詞の組 み合わせの可能性が無限であるから、「名詞」の数は無限である。例であげられた「空の―青白い―オレンジ色」(正確には「空の―青白い―オレンジ色の」で あるべき)は「月」を指すこともあれば、時間や空間が異なれば「空に放られた早生蜜柑」を指すのかもしれない。また「月」を指すのに一体いくつの形容詞の 組み合わせができるのだろうか?パロールだらけの世界である。

誰も名詞の実在性を信じていないことが、逆説的にその数を増やしているのだ。(十四 頁)

2007年1月8日

中國哲學書電子化計劃
私は中学時代からの『春秋左氏伝』愛読者なので、原典からの引用が楽になって喜ばしい。

・柄谷行人著、『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』、岩波書店(岩波文庫)、二〇〇六年。
 友人が読んでいたので買って読んだ。互酬、略取‐再分配、商品交換に代わる交換様式の説明や世界帝国とその亜周辺である西欧と日本の封建制の歴史につい て は興味深いけれど、世界共和国の話になると途端に夢物語になる。

2007年1月2日 新春読書日記

・フランソワ・ロ・ジャコモ著、『言 語の発展―国際語エスペラントの観点から』、水野 義明訳、大村書店、一九九二年。

 これは巴里大学第三系(言語学)の指導教授アンドレ・マルティネ氏に提出された学位論文の翻訳である。言語の発展に権威が必要かどうかをエスペラントを 事例にして 研究したものであり、「エスペラントの発展においては自由か権威か」という自らの問いかけに 対し、フランソワは

「言語権威主義は、その言語を使う言語集団の交流構造に有害なのではないか?」。答え は、もちろん、イエスだ!(四百二十五頁)

と答えている。言語共同体に属する人間全員が言語の「充実」や「発展」に主体的に携われることが、言語による交流とその言語そのものの発展にとって必要で ある。

「エスペラント民族」などは存在しない。エスペラントは国際語であり、いわば無国籍の 言語である。(中略)ひとつの民族がエスペラントを唯一の公用語として、そ の民族的統一の保証として受容するという思想は、抹殺すべきだ。(中略)エスペラントは民族言語と共存する第二言語である。それ以外に存在 理由はない。(四百十頁)

エスペラントには、もともと経済的、政治的「権力」は存在しない。エスペランティストの共同社会がひとつの「国」を成していないからだ。(四百十二頁)

 民族語と国際語とを分割することで言語の役割分担を行い、国際語は人工語エスペラントが担う、という点で私の意見と共通する部分もある。またフランソワ が挙げた、「生きている言語」エスペラントの文例も面白い。

okazis promociigo: prezidanto fariĝis simpla estraranto.
「昇進があった:会長がヒラの執行部員になった(ヒラの執行部員が会長になった).」(九十九頁)

という文章は対格語尾-nが抜け落ちているために、世界エスペラント協会の役員選挙で会長ハンフリー・トーンキンがヒラの執行部員にとどまり、同時にヒラ の執行部員グレゴワール・マールテンスが会長に昇進した事象を一文で表現している。

・石川九楊著、『二 重言語国家・日本』、日本 放送出版協会(NHKブックス)、一九九九年。

 日本列島の最初の公用語は漢語であり、日本は中華世界の一地方に過ぎなかった。そのため日本語は中国語と古代倭語の二重言語(二重複線言語)である。ま た、日本語はアルファベットを使う音声中心の言語とは違い、書字中心の言語である、といった日本語の歴史から日本文化にまで触れている。

文字は国家論であり、文字論は国家論である。(百九十二頁)
文字中心言語の東アジアの国家の形態は文字によって定まっている。(百九十四頁)

などの書道家の、文字を根拠とした国家論や東アジア論は興味深い。また日本語が持つ「中国語・和語・西欧語」の「三重言語」という特性の評価も面白い。そ して最後に石川九楊氏のエスペラントへの誤解を幾つか。

どこの国の言葉とて、自然言語である以上、長所もあり、短所もある。どの言語も理想的 とは言える様なものではない。(中略)エスペラントのような 人工言語 ともなれば、長い歴史を無数の人々の生命を賭けた営みに洗い浄められていないぶんだけ、当座はともかく、短所ばかりでほとんど長所のない珍奇なものとしか なりえぬだろう。(二百頁)

二重言語を克服するために、日本国家語を英語にするか、仏語にするか、エス ペラントに変えようというような破天荒な議論さえ生じるのだろうが(後略)(二百三十九頁)

などと、エスペラントを「民族語に代わりうる言語」であるとして、批判している。確かにそういうことを主張する人もいただろう。しかし、民族語を無くして エスペラントにするという考えは、本来のエスペラントの用途からは外れたものだ。なぜ、多くの人はエスペラントについて早合点したまま批判してしまうのだ ろうか?困ったことである。先入観に基いた批判ばかりが先行して、まともに国際語として議論しようとしていない。

2007年1月1日 デイヴィッド・クリステル著、『消 滅する言語―人類の知的遺産をいかに守るか』、斉藤 兆史/三谷裕美訳、中央公論新社(中公新書)、二〇〇四年。

いまや誰も英語を「所有」していない。歴史的文脈の中で、イギリス人が「所有」してい た時代もあったが、英語はいまや多くの人々によって、多くの場所で話されているので、もはや単一の中心勢力というものをもたない。(百六十三頁)

 世界でかなり多くの人口を有するはずの「英語」の共同体は実在するのだろうか?もし「英語」の変種や方言を「英語」と認めるのならば「英語」話者はかな りの数にのぼるだろう。しかし、英語の変種や方言を話している人々全員に、一つの「英語」共同体を形成しているという意識は無い。「英語帝国主義」という 言葉は便利だけれど、その実態は「英語系諸言語」(十六頁)を話す民族語共同体群の拡大にすぎないのではないのだろうか?なぜなら「英語」を話しているの は世界のほんの一握りにすぎないからだ。

言語の活力は、その変種の幅と変化への対応性、新しい環境への順応性に現れる。変化し ない言語は、もはや死に絶えた言語である。(百六十二頁)

その言語が伝統的な姿でなくなったとしても、人々に民族的独自性のしるしを与える手段として大きな真理的・社会的価値をもち得るということを認識しなけれ ばならない。これは、とくに先祖伝来の言語が神聖不可侵なものとされている伝統の中では、最も受け入れにくい考え方の一つである。(中略)教師が語法の変 種を真正でないものとしていちいち否定するなら、さらに年長者が若者の語法を言葉の乱れと見るなら、見通しは暗い。柔軟性のない断罪的な純粋主義は、言語の生存にとって最悪の筋書きを提供する。(百 六十三〜百六十四頁)

 「若者による日本語の乱れ」は耳にたこだけれど、もしこれが本当ならば、日本語はまだ活力を持っていると言える。しかし、もし日本語が「純正主義」に 走ったのであれば、日本語の「見通しは暗い」のかもしれない。日本語共同体の全体が日本語に主体性を持たなくなったとき、すなわち一部の知識人や教師が 「正しい日本語」を社会に押し付けたときに、「権威づけられた日本 語」、日本語そのものの墓標となるだろう。

最後にウェールズの諺を一つ引用する。
「言語をもたない民族は、心を持たない民族である。」(五十一頁)

2006年12月24日 ルイ・ジャン・カルヴェ著、『超 民族語』、林正 寛訳、白水社(文庫クセジュ)、二〇〇四年。

 筆者は『言語政策とは何か』の筆者と同じ人。原題はLes langues véhiculairesで「乗りもの言語」、そして邦題は『超民族語』。民族を超えた言語について扱っている。言語勢力拡大の要因とし て以下の諸要因があげられている。

地理的要因: スワヒリ語・ケチュア語・ピジン英語など。河川や道、港、山による拡大。あまり大きな原因ではない。
経済的要因:マンデカン語など。商業的な必要性。十分な原因とは言 えない。
政治的要因:スワヒリ語・マライ語。行政機関の作業語となることや 公用語となること。必ずしも原因とはならないけれど拡大の要因にはなる
宗教的要因:アラビア語・ラテン語・ヘブライ語など。聖なる言語と しての立場。宗教心の欠如で没落する。
歴史的威信:ケチュア語・アラビア語・ラテン語などの古典言語
都市要因:都市機能を維持するための言語
言語的要因?:この?は私がつけたものではない。言語が易しいか難 しいか?易しければその言語が拡大するのか?

多言語状態と伝達の必要性から超民族語が誕生する。それは民族語の一つが格上げするか、「超民族的な役割を果たすのに適した特別の言語を創造する」(百一 頁)かする。超民族語にはその言語そのものよりも超民族語的機能が必要である。

言語計画(アフリカ諸国を想定)
1「一つないしは幾つかの土着の言語をあらゆるところで活用する」
→親子間や社会階級の断絶を避ける。しかし一つだけの土着語の採用は他の共同体からの反発必至。おまけに幾つかの土着語の採用は分離独立主義を助長。中等 教育以上が困難。
2「国内の一つないしは幾つかの地域語と一つの国際語(他民族語)に同等の地位を与える」
→初等教育を受けやすくさせ、経済発展の道を開く。しかし諸民族語共同体から超越したエリートを作ってしまう。
3「一つの国際語(他民族語)をあらゆるところで活用する」
→国内が国際語で統一される。だが若者と両親の文化との間に溝を作ってしまう。民族主義的・イデオロギー的な抵抗を引き起こす。

国民公会への「グレゴワール報告」1793年7月3日
かくしてわれわれは,ことばにかんしては,30にものぼるさまざまなパトワ(patois 俚言)とともに,いまだバベルの塔にとどまっておるのでありま す.「自由」にかんしては,諸国民の先頭に立っておるというのにです(百十八頁)

2006年12月21日 ファンタジーに、もっと言語の多様性を!

  以前から扱いたかったテーマを「好き好 きおにいちゃんM!」に「ファンタジーと単一言語 −バベルの塔の世界−」と題して先を越されてしまった。だけど敢えてここで扱おう。マン ガやアニ メの世界では、翻訳こんにゃくを食べていないのに、異世界人・異国人 同士 が意思疎通できるということはザラにある。ナメック星人も惑星べジータのサイヤ人も地球人も容易に意思疎通できる。 マンガ『ナ ポレオン獅子の時代 1 (1)』ではロ シア人兵士の言葉をフランス人兵士が理解している。映画「スター・ウォーズ」ではそのファンタジー世界の人間はみな同じ言語を話していて、映画中にアル ファベットを表示しないようにしている。その一方でマンガ『皇 国の守護者 4 (4)』では百 五十二頁で<帝国>兵士が「皆殺し」と合唱しているのを<皇国>兵士が「敵は何と言っているのでありますか?」と上官に質問していて、『伝説巨神イデオ ン』でも地球人とバッフ・クランの話す言語は違う、というように言語に違いを与えている物語もある。しかし、たいていのマンガやアニメでは言語や言語の違 いについて言及されることはない。違いがあっても便利な翻訳機械や翻訳能力で片付けられる。よってこういったファンタジー世界の登場人物はみな同じ言語で 互いに意思疎通を行う。日本のアニメやマンガであればそれは「日本語」にな る。

 しかし、多言語国家スイスのアニメーション「ピングー」の言語については『夜想34パペット・アニメーション』でこう説明されている。

スイス は地域によって4つの違った言語があるため、どの地域でも受け入れられる独特の ピングー語が必要になった

ピ ングー公式ホームページでもこう紹介されている。

Q:ピングーたちが話しているのは何語ですか?わたしたちもしゃべれるようになれます か?
A:それは「ピングー語」で、どこの国でも通じる言葉なのです。も ちろん、毎日ピングーのおしゃべりを聞いていればしゃべれるようになるかもよ!
 
 ピングー語とはいうものの、それはペンギンの鳴き声にしか聞こえない。しかし多言語国家という、テレビ放映にとって苛酷な環境を克服するためにファンタ ジー世界の共通語として「人工語」を採用する、という選択肢は興味深い。また、日 本にもファンタジー性を増すため、といった理由で創作された人工語アー ヴ語などがあ る。そしてアニメ「銀 河鉄道の夜」では実 在する人工語エスペラントが共通語として使用されている。しかし、こういった人工語を利用して も、そのファンタジー世界の言語は一つ、或いは多くて二、三であり、ほとんど「日本語」のみを話し ているファンタジー世界と大差は無い。確かに言語が違うために登場人物の会話や意思疎通が制限されるというのは、物語を破綻させる一因になるのかもしれな い。 アニメ「ラストグザイル」 でアナトレーとデュシスが違う言葉を話していたらモラン・シュトランドの恋は実らなかったろうし、アニメ「NOIR」で夕叢霧香とミレイユ・ ブーケが多言語に達者でなければ世界各国での暗殺稼業に励めなかっただろう。

 しかし『カーリー』や『ミモザの花が咲く頃に』 で表現された、字体や鉤括弧の変化によって表現された多言語性、も物語に味を加えふくらみを増すことは 確かだ。日本からも、彼女達のように多言語空間を物語や設定に利用したアニメやマンガがもっと出てもいいはずである。しかし「日本語を国語と呼び、イングランド語を英語と呼ぶ」言語環境からは、なかなかそういったものは生まれにくいのであろう か?「ファンタジーに、もっと言語の多様性を!」と叫ぶ前に日本にもっと言語の多様性を受け入れる基盤が必要なのかもしれない。

2006年12月20日 冬の読書日記

・ルイ・ジャン・カルヴェ著、『言 語政策とは何か』、西山 教行訳、白水社(文庫クセジュ)、二〇〇五年。

 中国、マリ、トルコ、ノルウェー、タンザニア、インドネシア、スイス、マグレブ諸国 における言語政策や言語計画についての本。内容はともかく三 浦信孝氏の解説が興味深いので引用する。

 私はフランス語教師であり、フランス語によって自分の知的世界を広げてきた人間である以上、フランス語による交流と協力を目指すフランコフォニ―の発展 に 期待を寄せている。
(中略)
フランスのフランコフォニーへの取り組みに、もしかつての植民地帝国の形を変えた再編 の意図が少しでも潜んでいるならば、フランスは英語帝国主義を批判す る力をもちえないだろう。もしフランスが内に対しても言語と文化の多様性を 認める度量を示さないなら、フランスが外に向かって発する言語と文化の多様性の メッセージは説得力をもたないだろう。(百五十一頁)

これはEUでフランスが、EUの作業語をフランス語を含む五言語に制限しよう、という提案を出したこと、ヨーロッパ各国が高等学校で二つの外国語を学ばせ る提案を出したこと(暗にフランス語の擁護をしている。)を批判している。(百二十一、百二十二頁。)

・今福龍太著、「無国籍文化の形成―コスモポリタニズムとディアスポラ―」『ク レオール主義』、筑摩 書房(ちくま学芸文庫)、二〇〇三年。
 コスモポリタンを無国籍と表現。しかし大衆文化には「無国籍」を称揚する性向があり、これは国家的限定を除去したい欲望を孕んでいるのではないか?と述 べている。中でも紹介されているアイワ・オングの「可変的国籍」(flexible citizenship)にこれから注目していきたい。

・ルネ・シェレール著、「間奏 コスモポリタニズムと歓待性」『ノ マドのユートピア―2002年を待ちながら』、杉村 昌昭著、松籟社、一九九八年。
 近代のコスモポリタニズムについて

唯一のコスモスの代わりに、世界の多様性、複数性、そしてそれらの世界がそれぞれに競 い合って進化していくという観点が登場するのである。(六十一頁)  
偏在的な唯一の理性という概念から複数的な合理性という概念への転換といえるだろう。(六十一頁、六十二頁)

 歓待性か、それとも連帯性か?歓待性は他者(賓客)の方が自己(主人)より優位に 立つ。その一方で連帯性は共存を維持するけれど、共存すると同時にお互いの違いを 感じる。少数派集団はその国家の非歓待性の犠牲者である。

2006年12月19日 言語戦争

 13日、ベルギーの国営放送RTBFが「フラマン語地域独 立」「国王逃亡!」などという偽情報を流した。問題提起のため、だという。なにしろスイス、アルザスや ベルギーなどの中フランク諸地域は言語の坩堝の現場であり、「言語戦争が起こっている」とまで言われる地域でもある。日本もRTBFを批判するばかりでは なく、言語 について議論する切欠としたらいい。また、確かにRTBFはやり過ぎという意見もあるけれど、日本の放送局もこれく らいのことをやってくれないと存在価値がなくなってしまう。美人アナウンサーと娯楽と情報を提供するだけがテレビではあるまいに。いったい、ベルギーの知 的な自由さ はどこから来るのだろうか?

 旧約聖書の有名な言語戦争の記事を記す。

 Juĝistoj 12:-6
Kaj kolektiĝis la Efraimidoj kaj iris norden, kaj diris al Jiftaĥ: Kial vi iris militi kontraŭ la Amonidoj, kaj nin ne vokis, ke ni iru kun vi? vian domon kune kun vi ni forbruligos per fajro.2 Kaj Jiftaĥ diris al ili: Mi kaj mia popolo havis grandan disputon kun la Amonidoj; mi kriis al vi, sed vi ne savis min el ilia mano. 3 Kiam mi vidis, ke vi ne savas, mi elmetis al risko mian animon kaj iris kontraŭ la Amonidojn, kaj la Eternulo transdonis ilin en miajn manojn. Kial do vi venis hodiaŭ al mi, por malpaci kontraŭ mi? 4 Kaj Jiftaĥ kolektis ĉiujn loĝantojn de Gilead kaj batalis kontraŭ la Efraimidoj. Kaj la loĝantoj de Gilead venkobatis la Efraimidojn; ĉar ĉi tiuj diris: Vi estas forkurintoj el Efraim, Gilead estas ja meze de Efraim kaj meze de Manase. 5 Kaj la Gileadanoj baris al la Efraimidoj la transirejojn de Jordan. Kaj kiam iu el la forkurantaj Efraimidoj diris: Mi volas transiri, tiam la Gileadanoj diris al li: Ĉu vi estas Efraimido? Se li diris: Ne, 6 tiam ili diris al li: Diru: Ŝibolet; li diris: Sibolet, ĉar li ne povis elparoli ĝuste; tiam ili kaptis lin kaj buĉis lin ĉe la transirejo de Jordan. Kaj en tiu tempo falis el la Efraimidoj kvardek du mil.

1エフライム人(Efraimido)は集まり、北へ行き、イフタフ( Jiftaĥ)に言った。「なぜアモン人(Amonido)との戦争に行きながら、私たちと共に行こう、と呼びかけなかったのか?あなたの家とあなたを共 に火で焼くだろう。」2イフタフは彼らに言った。「私と私の民がアモン人と大きな戦争を行った。私はあなた方に訴えたが、あなた方は彼らの手から私を救っ てくれなかった。3私はあなた方が救ってくれないのを見て、私の魂を危険にさらしてアモン人と戦いに行った。そしてヤハウェは彼らを私の手に渡した。なぜ あなた方は今日、私と仲違いするために私のところへ来たのか?」4そしてイフタフはギレアド(Gilead)の全住民を集めてエフライム人と戦った。そし てギレアドの住民はエフライム人を打ち負か した。というのはエフライム人が「あなた方はエフライムから逃げ出した。ギレアドはまさにエフライムの中にあり、マナセ(Manase)の中にある。」 と言ったからである。5そしてギレアド人はヨルダンへの渡し場を遮断した。そしてエフライムの逃亡者のうちの誰かが「私は渡りたい。」と言うと、ギレアド 人は彼に「おまえはエフライム人か?」と問う。もし彼が「違う。」と答えたら、6その時は、彼は彼に「シボレト(Ŝibolet)と言え。」と聞く。す ると、彼は「スィボレト(Sibolet)」と返した。というのは彼は正しく発音できないかったからだ。そうして彼らは彼らを捕まえてヨ ルダンの渡し場 で屠殺した。そしてその時に四万二千のエフライム人が倒れた。【旧約聖書士師記第12章1〜6 訳;Barkituro】

 士師イフタフ(エフタ)の六年間の統治時代の話だ。マナセもエフライムもヨセフの子どもの名であり、彼らから派生した十二部族のうちの二部族名である。 イスラエルの長子権はヨセフの後に、ヨセフの次男の エフライムに与えられた。ギレアド人もマナセ族に所属するので、ギレアドが「エフライムの中にある」というエフライムの主張も一理ある。このこと から分かるように、まさにこの戦争はイスラエル人同士の内戦であった。戦争はヨルダン川西岸にいたエフライムが東岸のギレアドに攻め入って始まった(北へ 行き)と考え られ、エフライム軍が東岸で敗北しヨルダン川を越えて撤退するときにギレアド軍に捕縛されたものと考えられる。この士師の時代にすでにイスラエル人の間で 言語面での差異があったとは驚きである。

 そしてこれは関東大震災時に、朝鮮人が自警団に「十五円五十銭」と言わされて、発音できなかった場合は殺された故事と似ている。 この際には方言を話す日本内地人や舌足らずな日本人も殺されたり、殺されかけたりした。こちらは同じ東アジア人、あちらは同じイスラエル人である。外見で 見分けがつかない場合、言語が自分たちの共同体と他者の共同体とを区別する重要な差異となる。なぜなら人種は判別がとても曖昧で、わかりに くいから。

 これらの歴史は、言語によって自分の共同体と他人の共同体とを区別しようとする人間の一つの性質を現している。だからこそエスペラントによる世界市民主 義においても、民族語による共同体だけは残さねばならない。 なぜなら、母なる言語の共同体こそが、人間がやすらぐことのできる「故郷」であるからだ。

2006年12月18日 岡田俊之輔、「エスペラントに對する疑問」 に対する疑問

 岡田俊之輔氏は早稲田大学第一文学部(私も在学中)に勤務する英文学者である。彼のエスペラント論を解釈していこう。岡田氏はバベルの塔の例を持ち出し て

エデンの園でアダムとイヴが喋つてゐた言語(Adamic tongue)、世界唯一の共通語に對して憧れを抱く者もゐよう。ポーランドの眼科醫ザメンホフによつて提唱されてから今年で百年になるエ スペラントも、 正にさうした憧憬の所産に他なるまい。

母語の特質が人間の思考樣式に決定的な影響を及ぼす以上は、外國人のものの考へ方に違ひが見られるのも至極當然だが、どうやらさういふ差異を無くすのが 「國際化」だと世人は思ひ込んでゐるらしい。


 などと世界唯一の共通語としてのエスペラントを批判しようとしている。どうやら近 代欧州における普遍言語計画の一環としてエスペラントを捉えているらし い。確かに提唱者であるザメンホフ自身にも人類人の唯一の共通語としてエスペラントを考えていた節もあるし、エスペランティストの中にもそう考えている者 もいるだろう。しかし初期のフランス時代や現在において、そのように考えている者はエスペランティストの中でも少数派である。一九九六年の世界エスペラン ト大会で採決された『プラハ宣言』 においても

La naciaj registaroj emas konsideri la grandan diversecon de lingvoj en la mondo kiel baron al komunikado kaj evoluigo. Por la Esperanto-komunumo, tamen, la lingva diverseco estas konstanta kaj nemalhavebla fonto de riĉeco.
拙訳)諸国の政府は世界における言語の大いなる多様性を、意思伝達と発展の障壁として見なす傾向にある。エスペラントの共同体にとっては、しかしながら言 語の多様性は不変にして不可欠な、(言語の)豊穣さの源泉である。

 として、この世界における言語の多様性を維持するためにエスペラントは存在するとしている。このように岡田氏のエスペラント観や疑問は一部のエスペラン ティストに向けられたものであり、「エスペラントに對する」ものでは決して無い。

 また「中立的」についての問題ではエスペラントがヨーロッパ人には学習しやすく日本人には学習しにくいとしているが、数名のヨーロッパ人(ポルトガル・ ドイツ・ロシア)と文通を交わしている経験から言わせてもらえれば、逆に文法や単語が近いヨーロッパ人の方が自言語の文法や語彙に依存して間違える傾向に ある。(ラテン語と同じ。)もちろん文章の書きやすさ、話しやすさから見ればヨーロッパ人の方が利便があろう。しかし単語の膠着性などの面から見ればトル コ語や日本語話者の方が親近性がある。だがエスペラントの中立性とはこういった文法 の点にあるのではなく、どこの民族や国家に依存していないという点にあ る。「学習しやすさ」の中立性などというものはどの言語にも存在し得ないし、もし存在したとしてもヴォラピュックのような難解な言語になる だけだ。

 だが、このように岡田氏を批判している私でも、岡田氏の言語に対する考えには賛同できる。

 文化・傳統の問題に過度の便宜的處置を施すのは頗る危險である。かゝる簡略化の愚 は、國語國字改惡問題で散々見せられて來たではないか。成程、外國語を習得する事は難しい。が、それは取りも直さず外國人理解の困難に他な らぬ。ちやう ど、傳統を破壞してまで假名遣を簡略化しても正しい文章を綴れぬ者が絶えないのと同樣に、縱んば共通語を開發して言語障壁を無くすのに成功したとしても、 それだけ一層異人理解が易しくなる道理は無いのである。表面的な「理解」ばかりが蔓延り、從來の言語でしか表現出來ないやうな事柄の取り零しが卻つて増え るのではないかとさへ思ふ。

 私は新字体を使い新仮名遣いで書く。しかし日本の文化の伝統を引き継ぐべき旧字体や旧仮名遣いにも愛着があるし、それを保存すべきであると考えている。 また、他民族語文学や文化を理解するために他民族語の学習や研究は絶やしてはならないとも考えている。しかし他民族語の学習は多くの者にとって非常に困難 を伴い、苦痛をもたらす物であることを忘れてはならない。中学高校での英語教育は、英語文化に興味を持った者には良い影響を与えたが、特に興味の無い者に は英語を学習させることで逆に英語文化への反感をもたらしてきた。また英語の拡大に危機意識を持つ、ヨーロッパやその他の大陸の少数民族語話者がいる ことを忘れてはならない。そして現在求められているのは外国人理解の為の言語ではなく、意思伝達のための言語であることも忘れてはならない。氏は自民族語 への愛のあまりに、自国の文化の伝統を守ることと、国際共通語の問題を混合してしまっている。

「國 際」とは本來「國と國との交はり」の謂であり、自國の事を忘れて「根無し草」にな るといふ意味ではない。從つて、己れを知りつつ相手を知る、といふ事でなければならないが、相手を知るにしても、共通語を發明して云々など といふのは邪道 なのである。

 と岡田氏は主張する。「国際」は世界市民主義とは違うという点では意見の一致を見た。その上で私は自分の国の伝統や文化を守るために、他民族語共同体と の連絡においてエスペラントという「根無し草」の共通語を利用すべきであ ると考える。理想論かもしれないが、そういったものがあれば氏の言う「國語國字改惡問題」が出されることも無いであろう。そして日本だけではなく、英語に 文化や伝統を侵略されている少数民族語とそれらを話す民族の伝統や文化をも守れるであろう。確かにエスペラントは邪道かもしれない。しかし英語という世界 規模の「力」を持った言語に、「道徳」で立ち向かうには、世界に散らばる個々の弱い民族語が、エスペラントによって結集する必要があるのではなかろうか?

假に「國際化」なるものがあり得るとすれば、違ひを無くすのではなく、寧ろ異なる國民 性の持主同士が互ひの理解に努め合ふのでなければならない。

 国民性は、基盤となる自民族語がしっかりしていれば、どんな言語でも表出することができる。それがたとえ人工語であっても、である。(そもそも人工語と 民族語に明確な違いはあるのだろうか?)そして未来の社会に国民性が残されていることを、私は希望する。また人類が、興味を持った他民族語の学習に苦労で きる世界を作っていきたいとも考えている。そのためには世界共通語としてのエスペラントが必要なのだ。英語も英語以外のどの民族語もその役割を果たしえな い。

改訂版⇒岡田俊之輔氏のエスペラント観

2006年12月16日午後 山田雄一郎著、『英 語教育はなぜ間違うのか』、筑摩 書房(ちくま新書)、二〇〇五年。

 英語教育学の専門家の著作であり、その方面の知識に大変役に立つ。第三章「英語公用語論と日本人」と第四章「小学校に英語を!」での日本の外国語教育の 理念の欠如、第五章「熱烈歓迎!ネ イティヴ・スピーカー」のいわゆる英語バカお母さん、JETプログラ ムのお粗末さやネイティヴ・スピーカー神話などは読んでいて興味深く、日本の英語教育の現状について多くの未知の事項に触れることができた。ただ終章「英 語は教えられるのか」などでの英語教育の提案やこの著作が英語教育に携わる者を対象にしていることなどからわかるように現在の日本の外国語教育を批判しつ つも 「英語偏重の廃絶」を掲げて英語教育の改正を訴えるだけで代案はあげられていなかった。もちろんこの著作は英語にかわる べき代案を掲げるものでもないが、その点ではこの手の問題を扱う上での視野の広さに欠けるといえる。ただ

日本人 の考える国際人と世界で通用するコスモポリタンは、まったく異質の存在である。 私の思想は、この二つを一つにすることである。(中略)国際人をコス モポリタンに昇格させたいのである。(五十四頁)

 という意見から、もしこの著者がエスペラントを知れば、なんらかの思想的発展が見られると感じた。

2006年12月16日午前

 朝日新聞(2006年12月16日土曜日朝刊14版)に、「ケータイ自動翻訳」「立体映すネット」と題してIBMが発表した「五年以内に実現が予想される五つの新技術」についての記事が掲載されてい る。それによれば「まず携帯電話。5年後の2012年までにはリアルタイムの翻訳 機能が組み込まれ、外国人と互いの母語で話せるようになる。」としている。これはなかなか魅力的な記事だが、思わぬ落とし穴がある。それは 最初からこの世界全ての言語に対応した翻訳が行われるか?ということである。この地球上に例えば5000に及ぶ言語があるとしよう、すると全ての言語を翻 訳するのには5000×(5000−1)×2の機能が必要になる。これは非現実的な数字であるから、最初に対応するのはケータイを主に使用する主要な言語 である十数言語になるだろう。そして技術が進歩したのならば千でも数千でも対応できるようになるだろう。しかしそこまで技術が到達する前に「ケータイで翻 訳されないから」という理由で学習者が減少し、少数言語が消滅していく可能性が ある。もしこれが将来を通して現在の世界での主要な数言語の相互翻訳にとど まっているとしたら、それは商業的な言語帝国主義に他ならない。

 またこの技術革新により外国語を学習する意義や意欲が失われる可能性もある。携帯電話で話せば自動的に翻訳されるのであればそれはドラえもんの「翻訳こ んにゃく」みたいな秘密道具であり、子どもはあえて英語やその他の民族語の複雑な文 法や煩雑な単語を覚えようとはしなくなるだろう。そうなれば世界の人間 が外国文化や習慣に疎くなり、「外国人とは話せるが、相手を理解できない。」という人間が増えてしまう。生涯にわたり一言語しか話せない人間の比率が増加 し、人類の価値観の幅が狭まるであろう。技術が人類を退化させる好例とも言える。そして人間が自民族語の他にもう一つの言語を学習することの重要性に気付 く、良い機会にもなる。地球規模での商業活動や技術革新が進展しているが、これには文化・文学・ 哲学の側からの制御が必要となっている。倫理観ではなく儲けのために行動する大企業や技術者を野放しにしてはならない。
Barkituro

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