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『ア ンドロイドは電気羊の夢を見るか?』


 そんなことをいきなり本の題名で尋ねられても正直困ってしまう。だからその答えを見つけるために私たちは本を読むのだろうか?小学生のころ、この題名を 初めて見た時には、おぼつかない頭で電気ウナギの羊版や羊毛の電気絨毯を思い浮かべていた。アンドロイドについては正確でないまでも、だいたい理解してい た。しかし電気羊とは何か?についてはこれを読むしかない。10年もたって読んでみればすぐわかることであるけれども。さて、そのよく分かるアンドロイド も いまいちよくわからない言葉だ。アンドロイドとはふつうこの本に出てくるネクサス6型のような、人間と見分けがつかず、そし て心を持つ人造人間のことを指す場合が多い。ウィキペディアによればアンドロイドの語源は

「男性」を意味する andro と、「もどき」を意味する oid (接尾語)の合成語

ということらしい。男性型人造人間とも言う。そしてその対義語として女性型人造人間ガイノイド(gynoid)ということばがある。となればレイチェル・ ローゼンなどはアンドロイ ドではなくてガイノイドということになる。しかしジェンダー・フリーな風潮から男女の別を設けないヒューマノイド(Humanoid)という言葉もある。 ヒューマノイドはアンドロイドとガイノイドの総称みたいなものだが、この言葉には人の形をしているもの全てを含める意味もあり、単なる人形やロボット、そ して人間型異星人という、人が造らざりしもの、も含まれてしまう。

「この銀河を統括する情報統合思念体によって造 られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイス。それがわたし。」
長門有希 涼 宮ハルヒの憂鬱


 「涼宮ハルヒ」シリーズでの長門有希はアンドロイドではなくヒューマノイドのようだ。しかし長門が有機アンドロイドだと言及される文も作中にはある。作 者によって両者の境 は非常に曖昧なようなので私はロボットを含めた「ヒト形」のものをヒューマノイドと呼ぶことにする。そして人間の体の一部を改造したものがサイボーグ (cyborg)、改造人間である。このサイボーグを扱った作品では、体の一部が 機械や他の生物の体であっても脳の機能や心は人間として正常なのか?という心と体との一元論が語られることがある。これに関しては義肢や義手の問題も絡ん でくるので言及はしない。それはともかく人間に限りなく近いヒューマノ イドの夢はなぜかいつも人間に なることであり、この手の人 造人間モノの作品は人間に近い心を持っているが、どこか不完全で、生死や痛みに対する感覚が鈍いヒューマノイド、あるいはその複製品がたくさんあるヒュー マノ イドの「心」の動きを描く。そして物語が動けば ヒュー マノイドと人間の心の交流を、そしてヒューマノイドの自我の目覚めをなぞっていく。

「私が死んでも代わりはいるもの。」 
綾波レイ 「新世紀エヴァンゲリオン」


「(略)この虫に、こんなに脚はいらないと思うわ。」(中略)「どうして四本じゃない の?ためしに四本切ってみたらどう?」
プリス・ストラットン 『ア ンドロイドは電気羊の夢を見るか?

殺風景な部屋で何年も暮らす宇宙人製の有機アンドロイド。無感情に見えるだけで、やは りこいつにもあるのだろうか。一人でいるのは寂しい、と思うことが
長門有希『涼 宮ハルヒの退屈

「マッキちゃんはタカヒロと時間も体もいっしょ の船に乗ってる。私はみんなの船を岸で見ているだけかもしれない」
「自分がロボットだってこと いつも気にしてなきゃなんて 私思ってないから」
初瀬野アルファ『ヨコハマ買出し紀行』

「それやったらココにおちん○んいれたら 機械 でも気持ちええかな」
看護学生ロボット「ナーサリータイム」『花 喰幻燈機

  カレル・チャペックのロボット、フランケンシュタイン、ピノキオなどヒューマノイドの例の枚挙に暇はない。そして場合に よってはなまじ人間の形をとっているため、そして人間と同じ感情を持つために両者の見分けがつかなくなる場合がある。リック・デッカードがルーバ・ラフト のところからクラムズ巡査に連行される件や電気羊と羊の区別が明確にできなくなっている件では、読んでいるうちにぐらりと、人間とアンドロイドは違うもの だ、という観念が崩壊していることに気付く。ロボット、アンドロイド、人間。前者2つだけ がヒューマノイドなのではなく、全てがヒューマノイドのような気がしてくる。

 ヒューマノイドは時として人間とロボットの中間物としての科学的な立場ではなく、管理社会を生きる人間を象徴する立場に立つこともある。これは単 に訳の問題なのかもしれないが『華 氏451度 (1964年)』のミル ドレッド(人間)とフェルプス夫人(人間)、ボウルズ夫人(人間)の変な話し方とベイティー夫妻(アンドロイド)とプリス(アンドロイド)の話し方は どことなく似ている。もしミルドレッドの背中の蓋をパカリと開けると制御パネルがあったとしても不思議ではない。このことからアンドロイドは管理社会や高 度に進歩した科学技術世界でロボット化された人間を表現しているとも言える。生活が 便利になって人間が機械化しても誰も幸福になんてならない。そして人間が 造ったアンドロイドにバカにされるピンボケ人間イジドアにはどこか物悲しさを感じないだろうか?その物悲しさは人間とアンドロイドが大して違わないのでは ないか、 という不安の萌芽でもある。知性を持たない人間はアンドロイドやロボットと同じ ヒューマノイドに過ぎないのだ。

 スタニスワフ・レムの『ソラリス』も人間の存在を大きく揺るがす作品である。ソラリス・ステー ションに現れる偽ハ リーは確かにケルビンの記憶からソラリスの海が再生したケルビンの自殺した妻ハリーのヒューマノイドであり、その蘇生能力は地球上の生物では考えられない ほどの速度を持つ。しかし偽ハ リーは人間並みというよりもほぼ人間と同等の感情を持っている。そしてケルビンの記憶に頼ったものだが、偽ハリーは記憶さえも持っている。だからこそケル ビンは偽ハリーを愛さずにはいられなくなっている。たとえ偽ハリーはハリーと違っていたとしても。

「わたしがそのひとじゃないってこと、知っていてほしいから。」
ハリー『ソラリス』

 私は人間である。人間だからこそ、人間は他の生物や生命体と比べて特殊なんだと考えていた。それが人間の傲慢さを生んだ。だからこそ、この小説はそう いった「人間存在の絶対性」を揺るがすために書かれたのだと考える。この小説で私は人間存在への確信をおびやかされたと同時に、を思った。人間の死もヒューマノイドの死も同じく、なのだろうか、と。たぶん、そうなのだろう。人間は人間とよく似た存在と出会 い、それが人間とは違うということだけで、劣っている、人間と似ているけれど少し違う、と人間中心に見なしてしまう。しかしいろいろな要素を人間と同じよ うにプログラムしてしまえばヒューマノイドは人間と同じ存在になる。感情があり、共感し、必ずやってくる死を思う。ヒューマノイドに人権だって与えられる だろう。もし人間がヒューマノイドと違うとしたらそれは子孫を残し、成長するという ことだけだ。それだけが生物と人工物の違いである。つまり人間という 種族の連続性、それだけが人間が人間であり、ヒューマノイドではない唯一の証である。例え個体は死んでも人間という種族が残っている限り、 種族全体はその個体 を記憶することだろう。けれどヒューマノイドの記憶は電子回路にしか残らない。それは人間が勝手に消してしまうこともできる、とてもあやふやな物だ。

「自分の…体の…ことは…わかって…いまし…た… 自分が…壊れ…た…のでは…なく… て… 私の…寿命が…もう…ないこと…」
ジ・インタシティ 『ファイブスター物語[』

「あんたは…さ 繰り返し消されていく私の記憶の中に残すことのできた数少ないおと もだちなんだから」
00007『 とわにみるゆめ。』

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