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大 学国 際教養学部設置案

始めに…

 私は日本語 を母語としている。日本語は私が幼児の頃から話している大事な言語だ。この言語で私は20年以上生きてきて、いろいろな思い出を綴ってきた。世界には 5000から7000、或いはそれ以上の言語があるという。そして今後100年のうちに25%から90%の言語が失われる予測がたてられている。そして話 者が2万人に満たない絶滅危惧言語は実に4000にも及ぶという。なにしろ言語数のうち96%の言語を、人口にして4%の人間が話すのが、現在の地球の言 語環境である。しかし多くの人が話す中国語が優れていて、少ない人が話すブルトン語が劣り、アラビア語が文明的で、アラム語が野蛮だ、ということはない。 どんな少数言語も、その言語を話す人たちの価値観や認知する世界を表現しているという点で人類の貴重な財産である。その貴重な財産がこの地球上から次々と 失われていく。

 にも関わらず日本では大手英語企業を中心に「英語を勉強しなければならない。」「英語はこれからの国際社会で必要だから、日本人は話せるようにならなけ ればならない。」などと喧伝している。これは国内がほぼ日本語で統一されアイヌ語や沖縄方言などの他者の存在を認めないか、あるいは黙殺してきた日本人の 傲慢であろうか?日本人は国内で単一言語支配を達成したので、海外でも単一言語で済ませようとしている。こうして、日本から英語を流暢に話す人が多くの輩 出される陰で、多くの言語が話者を失い絶滅していく。多くの人々の記憶が、そして思い出が、その言語の最後の話者とともに失われていく。日本が目指す国際 社会はこんな世界であっていいのだろうか?そうしないためにもこの問題の重要なキーワードとなる「国際教養学部」について考えていこう。

国際教養学部について


 「国際教養学部」といえば我が早 稲田大学にも国際教養学部という 学部がある。ほとんどの授業が英語で行われ、全ての学生が一年間どこかの国の大学に留学しなければならないという、高い志と理念を持った学部だ。ここの ホー ムページにはこの学部の説明としてこう書かれている。

 ・世界のWASEDAへ
国際 教養学部は、特にアジア太平洋地域における、最高水準の大学教育の実現をめざし、 グローバルスタンダードに則った教育環境を整備します。英語を共 通語とし、学生と教員の比率を約25対1に設定し、ゼミ形式の授業を中心に、ソクラテスメソッド(発問式・対話式授業)を用いた少人数教育 を実施。学生が学びの主体として、学生の意欲を引き出し発展させるためのシステム作りを行います。

 確かにこの学部はほとんどの授業 を英語で行っているようだ。その一方で上智大学国際教養学部の ホームページもいきなり「日本語」か「English」かの二者択一を迫られる。そしてここでも授業は英語で行うという。

肌身で体験する国際的な教育環境
すべての授業を英語で行うばかりでなく、世界中か らの公募で選ばれた教授陣の半分以上が外国籍で、専任教員1人あたりの学生数が約20人という少人数教育を行っています。さらに学部学生の約3割を留学生 が占める中で、学生は日常的に国際社会を体験し、相互に学びあうというグローバル・スタンダードの教育環境となっています。
上 智大学国際教養学部       

そのほかにも国際教養学部は国際基督教大学にも教養学部としてあるし、中には そ のまんま大学名が国際教養大学なんていう秋田県の公立大学も存在する。このよ うな「国際 教養」という名のつく学部・大学は2004年以降、多く設立されるようになった。しかも大手予備校、代々木ゼミナールのデータによれば私立大学の文・教 育・外国語・家 政系の2007年の偏差値第一位が早稲田大学国際教養学部だ。それだけこれらの国際教養関係の学部に受験生の人気が集まっている、ということをこれは表し ている。

私立大学入試難易ランキング表 (2007年度用)
文・教育・外国語・家政系
65
 早稲田 国際教養  
64 
慶應義塾 文   (2)
 早稲田 第一文   ←ちなみに私はココだ。
63
 慶應義塾 環境情報  (1)(2)
 国際基督教 教養(人文系)  
 上智 外国語  
 早稲田 教育(文系)  
 立命館 国際関係

そしてある国際教養学部の女子大生のブログには、代ゼミ偏差値表へのリンクの上にコメントとして

「ねねねっっ!!!国教一番上だったょぉ!!!すご くなぃ!?
国教って実はレベル高かったんだー!!!何か嬉しぃー!!! 」

と、書いてあった。

 さて、その他にも小学生から全ての授業を英語で行うというぐんま国際アカデミーの 名 にも国際がくっついている。このように国際教養学部や国際教養は人気を集めており、「国際」という言葉も人気である。そして、どうやら日本国内では「国際 = 英語」という意味で用いられてい る傾向がある。ここでの「英語」とはイングランド語が日本で神格化された場合の言葉だ。もはやそれは「吉利の言」 という意味のない、「(ひい)でた言」という意味での「英語」である。「国際=英語」の使用の証拠に上の二大学の 国際教 養学部でも、ぐんま国際アカデミーでも主に英語による授業が行われている。もちろん中にはこの学部生の中にも英語以外の言語を学習し自主的に非イングラン ド語圏へ留学 する志の高い学生もいる が、 多くの学生がイングランド語圏へと留学しているのが現状だ。まず、ここで「国際」が 「英語」の 代名詞のように使用され歪められている

 そして早稲田の国際教養学部のイングランド語名は、略称がSLISと呼 ばれるように「School of International Liberal Studies」であり、上智大学国際教養学部のイングランド語名は「Faculty of Liberal Arts」となっている。すなわちこれらの学部での「国際教養」とはヨーロッパ的なリベラル・アーツ「自由七科」のこと、もしくは知識人を育成する教養科 目を指す。そしてもっと言うならばアメリカ連合州の「リベラルアーツ・カレッジ」(全寮制小規模大学)のことを指している。それを模倣した秋田県の国際教 養大学が その良い例だろう。なるほど、世界に冠たる
アメリカ連合州の 高度な教養を学ぶ大学を模倣した、だから「教養」という名を学部名や大学名つけるのはわかる。しかしアメ リカ連合州のリベラルアーツ・カ レッジはラテン語やフランス語で授業をしているのでは無く、自民族語のイングランド語で授業をしている。それを模倣した日本国内にある国際教養学部・大 学はその多くが自民族語ではない英語で授業を行っている。そのために、いや寧ろそれを強調して「国際 教養」という名を使用している。けれどもアメリカ連合州の大学 の方式を真似し、数多く存在する民族語の中の一つである英語で授業をしているからといってそれが即ち「国際教養」となるのだろうか?ここでも「国際」の意 味が歪めら れている。なぜなら本当の「国際教養」を学生に培わせているならば英語を使用する必 要は無く、アメリカ連合州のリベラルアーツ・カレッジのように自民族語である日本語を使用すればいいからだ。それは外見を派手に毛羽立てる ことで中 身の足りなさを隠しているようでならない。すなわち世界に通用する「教養」を目的とすべきリベラルアーツ・カレッジの目的が、国際教養学部では「国際」語 であ る英語を使えるようになることに置き換えられてしまっているからだ。

こうなると、国際競争に競り勝つためのツールとしての英語教育を、リベラルという概念 につなげるのは自己欺瞞以外の何者でもない。
浜口稔「変貌するリベラル・アーツ」『リベラル・アーツと大学の「自由化」』 216頁

 確かに多くの留学生と共に学ぶという国際教養学部は魅力的だし、そこでも質の高い教養 が教授されていることだろう。しかし残念なことに、その看板である「国際教養」という言葉の意味はこのように歪められている。これは「国際」という美名の下に行われる、親米派・親英派の育成といっても過言ではない。こ れが例えば英語ではなく中国語であっても、それは親中派の育成に他ならないだろう。

 ここで「国際」について考えよう。「国際」とは『新明解漢和辞典』によれば「国と国との交際または関係」を指し、そのエスペラント訳である 「internacio」も「国(nacio) の間(inter)」という意味だ。総じてこの言葉は世界における多元的、多方面的な国同士の外交関係や通商関係を指す。現在の世界において、大英帝国の 威 光と歴史に照らされており、なおかつ
アメリカ連合州の経 済力と軍事力に裏打ちされたイングランド語は確かに国際語として流布している。それはオーストラリ アや カナダ、インド、シンガポールなど、大英帝国の旧構成国が共通語としてイングランド語を使用していて、経済的な影響力があることもそれを助長している。し かしイングランド語は「国際語」となっているとは言えど、「国際語」になるべくして 作られた言葉ではないので、その文法は難解で不規則であり、それを自民 族語とする者以外が使用するのは現地で長く生活するなどしなければ習得は難しいものだ。だからこそ世界でこれを使用できるのはイングランド語を自民族語と する人たちか、イングランド語圏で生活経験のある人だけである。ということは国際教養学部などで、英語で学び、イングランド語圏へ留学して、それを「国際 教養」として習得 するということはイングランド語を中心とする旧大英帝国諸国(イギリス連邦、コモンウェルス)との外交や通商を円滑にするが、それ以外の関係を疎かにして いることになる。もしくは敗戦後、 GHQの占領を受けた日本が置かれている、アメリカ連合州の 同盟国、もしくは不沈空母、または忠実な下僕としての立場をより強固にし、アメリカ連合州の附庸国「日本」の国 際的 な地位を強調しているようにしか見えない。強いて言えばこれは日本の外交・通商的見地や可能性を狭めることにしかならない。だからこそ、昨今の風潮のよう に「国際 =英語」とし て使用すること、または現行の国際教養学部・大学が世界各国(主に近代ヨーロッパ)の知識人が有する教養と同じ教養を学ぶことを主目的とするのではなく、 英語を 使うことを主目的とす ることは日本人の国際感覚を偏狭なものにし、日本人の閉鎖的で盲目的な属国根性を培 うだけであると考える。これはあたかもアメリカ連合州やイングランド語圏だけが 世界の全て であるように錯覚し、外人を見れば彼がどこの人かも構わずに英語で話しかけ、ハリウッド俳優のスキャンダルを垂れ流してそれを見て喜び、イングランド語を 話せない外 国人を蔑む日本人の風潮などを見れば、その 歪んだ国際感の弊害がわかるというものだ。すなわち現行の国際教養学部や国際教養大学は国際教養を身につける場としてふさわしくない。

 だが現状を鑑みれば、イングランド語帝国の形式的な言語植民地に属している日本国が義務教育で国民に英語教育を施さないのは怠慢であり、批判されるべき 失政である。なぜなら、1945年の敗戦以降、この複雑な文法と活用を持つイングランド語の言語帝国に否が応でも日本国が組み込まれてしまったがために、英語を国民に教えないことはこの資本主義的な言語帝国において、言語下層民を量産することに他ならないからだ。すなわち私立学校を除いて、現在 の日本国には第一外国語を英語以外で教育することは不可能なのである。つまり、選択する自由も与えられていないのだ。そして多くの絶滅危惧言語から「危 惧」の二文字が失われるためにこれらの言語帝国が世界各地で機能し、多くの国や共同体が選択の自由を奪われ、少数言語の問題を黙殺しその死を促している。 こうして100年後には 三省堂の『言語学大事典』は薄っぺらい本になっていることだろう。この危機的な状況を打破するために、もしくは打破しうる力をつ けるためにはイングランド語帝国やその他の言語帝国に代わり得る新しい言語秩序が必要である。だがその言語秩序を築く方法は私には分からない。なぜなら≪ 力≫や≪富≫を第一義とする人々を≪道徳≫や≪正義≫を第一義にするように宗旨変えさせる手段を知らないからだ。しかし私は一旦、新しい言語秩序を築いた 後でそれを維持する方法なら知っている。それは国際教養を多くの人が獲得することである。

 では国際教養を学ぶべき「国際教養学部」Fakultato de internacia ĝenerala edukado、略称
FIĜE(フィーヂェ)とはどうあるべきなのだろうか?より理想なのは国際連合の公用語であるイングランド語、ロシア 語、中国語、フ ランス語、スペイン語、アラビア語を授業で使用する学部である。しかしこれはまだ理想的ではなく、その他のベンガル語、インドネシア・マレー語、ドイツ 語、イタリ ア語、ポルトガル語、ヒンドゥー・ウルドゥー語、ペルシャ語、トルコ語、韓国・朝鮮語なども使用されなければならない。しかしこの理想は学生にも、まして や 教 員にも要求するのは酷というものだ。そしてそれでは学部の四年間では決して足りないだろう。だからこそ、それら多くの民族語の代わりとしてどこの民族語で もない中立的な 人工語、国際語 になるべく作られたエスペラントを、国際教養学部では使用する。なぜイングランド語を使わないのか?イングランド語だって世界に広まっているのだから、た とえ民族語であるとは言え、エスペラントと同じく中立であろう、という考えはとてつもなく危険な思想である。この考えは今でもアメリカ連合州の半分近い州でイング ランド語が公用語となり、イングランドやコモンウェルスでイングランド語が自民族語として話されている事実を無視し、世界の多くの人間の自民族語がイング ランド語ではな い事実を黙殺しようとする意図を孕んでいる。だからこそ誰の自民族語でもない(20人〜2000人の生まれながらのエスペランティストを除く)、最も一般 的な国際語であるエスペラントを使用する。そしてこの簡単な言語を使用することで複 数の極を持つ言語帝国体制を解消し、エスペラントを中心に6000になんなんとする全 ての民族語を平等に並べ、少数民族語の使用を促し、絶滅危惧言語の保護に乗り出す余裕を獲得するのだ。現在の多極化された言語帝国体制では 習う べき言語が多すぎる問題があり、またイングランド語帝国での一極化でも生まれながらの不平等が発生する。世界共通語を人工語のエスペラントに統一すれば問 題は「学習の差」(=努力の差)だけになる。

Kvankam, kiel ĉiu lingvo, esperanto ne estas perfekta, ĝi ege superas ĉiun rivalon en la sfero de egaleca tutmonda komunikado.
訳)けれども、この(不公平な)言語のように、エスペラントも完全ではないが、それは平等な世界の情報伝達の領域において他の競合する言語にはるかに勝っ ている。
「プラハ宣言」       

 ここでの国際教養学部は単にこの人工国際語を学び、その言語能力を培うための外国語学部と してではなく、将 来には、このエスペラントを使用して国際交渉や商取引を行う人材、「国際的知識人」を養成するための学部としてである。彼らを育成することがこの言語帝国 に代わる新しい言語秩序を維持することに繋がる。ちなみに英文学・英語文化やその 他の言語圏の文化、そして他の民族語やエスペラントの言語学は既存の文学部、外国語学部に委ねるという前提しておく。以下にその国際教養学部の構想を 述べる。

*補足:下の「大学国際教養学部の構想」は、従来の言語帝国体制が崩壊し た後の混乱状態(たぶん、そうなるであろう)において、人類はどのような新しい世界秩序を築いていくのか、について書かれたものである。これは「やりす ぎ」ではなく経済や政治のことについて触れておらず基本思想に留まっているのでまだまだ「ぬるい」記述である。新しい世界秩序は学部の設置如きで解決でき るような問題ではない。しかし、まだ起こっていない未来の事象への対処案として書かれたものなので少し戸惑うかもしれない。だから空想的社会(ユートピ ア)の記述として読んで欲しい。言語帝国が崩壊したということは国際共通語がなくなり、そして全ての言語が平等になることだ。そのような状況でそれぞれの 言語集団が代表者を出したとすれば、国際会議では現在のEUのように言語数×(言語数−1)人の通訳が必要になる。そし て世界の言語数は6000に及ぶほどである。国際会議が開かれた会場は、通訳で溢れかえってしまうだろう。それを解決するために、共通語にどこかの国家の 民 族語を採用したのでは、また言語帝国が復活してしまう。だからどこの国家にも属さな い「国と国との間にある」、つまり国際にあるエスペラントを採用するのある。もちろんエスペラントが真の国際語だからではない。(真の国際 語はあ りうるのだろうか?)そしてこのエスペラントの採用により、かつて言語帝国の辺境にあった少数言語とその話者を世界の舞台に引っ張り出して、世界の言語の 多様性を維持していくのである。

**補足:ここまで国際教養学部について述べた。しかしこれはもは や若書きにすぎない。なぜなら国際主義と世界市民主義との差異が曖昧だからだ。な ので曖昧な考えを下地にして書いた、これから述べる国際教養学部の構想は言語帝国体 制が崩壊して言語共同体体制に移行するまでの過渡期を維持し、そして言 語帝国への反動を防ぐための逆止弁のような学部に過ぎなくなってしまった。なぜなら「国際教養学部」という名から連想されるのは国際主義で あり、国際主義 が目指すものは本来目的とすべき世界市民主義の理想に届いていないからだ。しかしそれは名だけのことで学部の内容は既に世界市民主義的であると考えてい る。だからこそ本来ならば世界教養学部 Fakultato de kosmopolita ĝenerala edukadoとでもして、略称をFKĜE(フォコヂェ)ともすべきであった。→世界市民 主義


大学 国際教養学部の構想

Plano de Fakultato de internacia ĝenerala edukado (FIĜE) en universtato


 これは今すぐ実行しようというものではなく、エスペラントが世界に広まって国際語として認知された際に、人類が行うべ き責務としてあげた。そうはならな いであろう、では無く、もしそうなった時に困らないために、である。この構想のためにはエスペラント世界 設計案で提案したような学校教育図 書館などの仕組みが形成されている必要がある。そして国際教養学部は原則上、全ての学生を受け入れなければならない。それが出来ない場合は 基 礎的な学力試験を課さねばならない。そして進級や単位取得を難しくして卒業しにくい構造にし、学部に所属できる期限を十年としなければならない。なぜなら 国際教養は人類であれば誰もが得られるものであり、それを修学するためにはそれなりの困難を伴わなければならないからだ。

世界市民主義を学ぶ Lerni Kosmopolitismon en FIĜE
 イングランド語にせよ中国語にせよ、どこかの民族語を学びその文化について深く追究することは重要である。何か民族語とその文化を知っていることは強み になるし、 人 間形成に大いに資するところとなるだろう。しかしどれか一つの民族語に属しているということもしくは学習していることで知らず知らずのうちにその言語帝国 主義に加担していて抜け出せないことがある。それが国家ならばなおさらのことだ。現在の英語教育を外国語教育の柱に掲げる日本が
アメリカ連合州側の立場しかとれな い原因の一つにそれがある。けれど、どんな人間であろうと人間として産まれた限りはどこかの民族の立場に立たざるをえないものだ。そして必死に学習した民 族語を話す国 々を応援したくなるものである。しかし国際社会を舞台とした場合、民 族や国家という立場を強調する前に人類の一員であること、世界市民kosmopolito/mondcivitanoであることであることを認識しなけれ ばならないアレクサンドロスの帝国によって広まったコイネーを共通 語とし、ヘレニズム文化を土台として初期のコスモポリタンは活躍した。エラスムスなどの中世ヨーロッパの知識人もラテン語で国境を超えた言論を行った。そ れらに習い、国際語エスペラントを媒介とし た世界市民主義kosmopolitismo/mondcivitismoをこの学部では培っていく。この世界市民主義の気概が、国際教養の礎となる立ち 位置を学生に自覚させる。

*エスペラントの提唱者ザメンホフの掲げる人類人主 義Homaranismo(全人類 が言語も宗教も一つになる)は理想的だが現実的ではない。なぜなら 人 間はそこまで理想的な存在ではないからだ。

●普遍教養を学ぶ Lerni ĝeneralan edukadon en FIĜE
 よく言われる一般教養ではなく普遍教養とここでは言おう。例えば「英語を勉強しているのに外人と話す話題がない。」という人がいる。そういう人は英文学 などを読 めば良い。なぜなら言語の使い方や正しい用法だけを学んでも相手と同じ教養や知識を持たなければ折角の学習も役立たないからだ。同じように国際的知識人と なるためには世 界に通じるエスペラントの言語運用能力よりも普遍教養が重要なのであ る。では普遍教養とはなんだろうか?これは世界各地の民族語文化の中から生まれた智 恵や哲学、思想、理論、技術であり、人類が世界市民として共有する権利を有する教養のことだ。そして世界市民であるために必要な知識のこと でもある。その範囲は文学や哲学、歴史学、宗教学はもちろん数学、物理学や生物学、化学、天文学、解剖学、建築学そして法学、経済学、社会学などの実学で はない諸科目に及ぶ。そしてこれらの学問は世界市民の言語たるエスペラントで記録され貯蔵される。そのため誰にでも開かれた知識であり、誰もがそれを入手 することができる。また普遍教養とはこれら知識の他にも人間としての力をも指す。それは他人との社会交際や社会生活、行事によって培われる判断能力や臨機 応変の能力である。これは世界市民として世界視野で生きるために必要なことである。また、この力は「読書量」に比例すると言える。だからこそ国際教養学部 ではエスペラントと自民族語による読書を積み重ねる。もちろん第二外国語の読書の授業もある。自民族語では自民族が培ってきた言語文化を習得し、エスペラ ント では世界市民たる人類が共有する重要な知の典籍を集団で意見を交わしながら読みこなしていく。第二外国語ではそれで著述された感情や表現を会得する。こう することにより世界のあらゆる時空と分野を超えた記述者や席を並べる級友と向き 合い対話を行う。そこで得たものを国際教養学部での学業や生活、級友との交際、行事で実践し、試行錯誤をして自分のものにしていくのだ。知識と経験は世 界市民の大いなる力となる。そしてそれが人類社会の大きな糧となる。これが国際教養の最も重要な点であり、武器である。

●留学する Studi en alia FIĜE
 現行の国際教養学部のように義務ではないが、国際教養学部の学生は他国や他大学の国際教養学部に留学することができる。どこの国へ行っても授業はエスペ ラントで行われるために授業や履修の面で不都合は感じない。留学期間は学期単位で自由に選べるし、留学先も自由だ。学期の科目登録が始まる前に現地へ言っ て事務手続きを済ませれば良い。もちろん単位は完全に互換される。そして入学した国際教養学部と学士論文を提出した国際教養学部が異なっていても構わな い。国際教養学部に大学や国境の垣根はなく、あるのは個人的事情や学問の興味の有無だけだ。一つの国際教養学部に入学したということは全世界の国際教養学部に入学したということに等しい。 エスペラントを使って世界を知の探求のために渡り鳥のように動く学生の様子は、まるでラテン語を媒介としてヨーロッパ中で学問を得た中世ヨーロッパの知識 人やアラビア語を駆使して世界中に散らばったアッラーの知識を求めてマドラサからマドラサへと旅をしたウラマーに似ている。そして、それこそが大学の本来 あるべき姿である。

●専門研究を行う Studi speciale en FIĜE
 世界市民主義という立場を獲得し、普遍教養を得てから学生は自分の専門とする研究分野を開拓していく。ここでは文系や理系などに分類されることはなく自 由に自分が根を張るべき専攻分野を選択し、学士論文を執筆する。なぜならば国際教養学部は技術者や専門家を養成するのではなく、政治家や国際公務員、外交 官、各種公務員、図書館司 書、初等・中等教育の教師、商社などの会社員、新聞記者、報道記者、編集者、作家、研究者などの教養人を育成するためのものだからだ。しかし、学士論文が 扱う分野は重視されないがその質は重視される。論文は自民族語で書くこともエスペラントで書くこともできる。エスペラントで書かれた優れた論文は印刷され 図書館に収められ世界で共有される。人類社会に育くまれているために、国際教養学部の学生は人類社会に知識の面で還元しなければならない。大学国際教養学 部には大学院が設置されているところもある。学士論文を提出した学士所得者には全世界の国際教養の大学院に入学する資格がある。そこで二年間の修士課程、 三年以上の 博士課程を経て研究者になることもできる。研究者として研究に従事する傍らで国際教養学部で教鞭を執ったり、他の大学や学部に行って教鞭を執る。修士論文 以上の論文はエスペラントへの翻訳が義務付けられる。なぜなら人類社会に育まれた国際教養学部生はやはり人類社会に知識の面で還元しなければならないから だ。


 以上が大学国際教養学部の構想である。
もちろん、言語帝国主義の排除と危機言語の保護がまず最初の目的 であり、国際教養の名の下に行われる「知の統合化・共有化」は最初の目的を果たしたあとの世界を維持する方法に過ぎない。これは既存の大学に新設されることを前提としているが、国際教養大学という独立した機関であってもいい。またこれは円 滑 な留学の運営のためにも全世界で国際教養学部が置かれている必要がある。一つが存在するために多を必要とする、そして現在の世界から見て夢想的すぎるこの構想は、子どもっぽい理想に見えるの かもし れない。しかし人類は、ありのままの言語の暴力と現実を受け入れるだけではなく何が最も良い方法かを考える機会を与えられてもいいと思う。

 最後に孫引きだが現状への悲観を印象付けるために『オックスフォード英語辞典』の第五代編集長ロバート・バーチフィールドの言葉を載せる。

地球上のいかなる教養人であれ、もし英語を知らないなら、本当の意味で欠陥人間である。

Barkituro

【参考文献】
佐藤次高著、『イスラーム世界の興隆』<世界の歴史8>、中央公論社、1997。
三浦信孝他編、『言語帝国主義とは何か?』、藤原書店、2000。
河原俊昭編、『世界の言語政策』、株式会社シナノ、2003。
デイヴィッド・クリスタル著、『消滅する言語』、斎藤兆史/三谷裕美訳、中央公論新社(中公新書)、2004。
越智信雄編、『リベラル・アーツと大学の「自由化」』(明治大学人文科学研究所叢書)、明石書店、2005。
エラスムス著、『痴愚神礼賛』、渡辺一夫他訳、中央公論新社(中公クラシックス)、2006。

Revenu

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