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『華氏451度』を読んで本を焼け!



 レイ・ブラッドベリRay Bradburyの代表作『華氏451度』FAHRENHEIT 451は、焚書官と して、所有を禁じられている本を焼く仕事に携わるガイ・モンターグが家に隠し持っていた本を読みはじめて知性に目覚め、知性に目覚めたことによる不注意で 国家から追及されて家を焼かれ、逃げている途中で本を暗唱している集団に出会い彼らに合流する話である。「まだ家屋が、完全に耐火建築にならなかった当時 のことですが」(p.59)と「アスベスト製造者の組合に、創立をいそがせるときだろう。」(p.237)からアスベスト(石綿)が使われていた時代の話であることが わかり隔年の感は堪えないが、現在の非知性的な社会に対する警告の書として生きながらえるべき一冊である。これ以外にも本を焼く話はよくある。もちろん小 説ではなく歴史上であったり伝説であったりだが。ちなみにエスペラントへの最初の焚書はまだエスペラントが産まれる前、ギムナジウム時代のルドヴィコ・ザ メ ンホフがつくったLingwe uniwersalaの原稿を父マルコ・ザメンホフが焼いたときとされてるがこれも伝説と言われている。

●前213年「秦始 皇帝の焚書坑儒」。
 紀元前4世紀、秦孝公は商鞅の改 革によって、什五 制(五人組のような 密告・連帯責任制度)、信賞 必罰農工 の奨励と商業怠惰貧乏への自由身分剥奪県制(中央集権体制)、田地 の区画整理度量 衡の統一などの変法 を行い中央集権的法治国家の体制を整えた。農工中心の管理社会という点では変法後の秦は共産主義国家と幾分か似ている点がある。そしてこの商鞅の改革に よってできた体制を基礎に『荀子』(性悪説)や韓の宰相申不害の実践に影響を受けた『韓非子』(法家)の思想を秦王政が導入し、秦は厳正な中央集権的法治 国家になった。そのために秦は強国となり中国を統一することが可能になったのである。この「人間の本質は悪である、よって法によって矯正しなければならな い。」という思想を根底にした厳格な法を施行するために焚書は行われた。実施された焚書では「秦以外の国の歴史書」「諸子百家などの思想書」を焼き、「農 業・占術・医術などの書」は残すといったことから、民草から思考や思索を奪い、盲目的に法を遵守させようとする点で『1984年』や『華氏451度』の世界観(反ユートピ ア)や主張と共通するものがある。

●後641年「アム ル・ブン・アルアースのアレクサンドリア図書館焚書
 これはアラブ側の伝説であるが、 エジプト征服者アムル・ブン・アルアースが「クルアーン(イスラームの聖典)の内容に適わない本は不遜だから焼け、クルアーンの内容に適っている本は不要 だから焼け。」と言ってヘレニズムの知の蓄積たる大図書館を焼いて本を浴場の燃料としたもの。エスペラントによるこの伝説を脚色した物語はこちらLa granda biblioteko en Aleksandrioで読める。これは古くからのオリエント・ヘレ ニズムの知識をイスラームに入れずに、イスラームという宗教をアッラーの言葉である『クルアーン』に一致させようという意図、知に対する宗教の弊害が現れ ている。もちろん実際の大図書館は前48年にガイウス・ユリウス・カエサルの失火によって消失し、「妹の図書館」と呼ばれた再建されたものは前398年に テオドシウス帝の勅令で破壊された。三回も破壊された図書館であり、その三回目に図書館は存在しなかった。しかしながらイスラーム文明はその後、世界史で も稀 に見る図書館文化を築いている。

●後1176年「ダー ル・アルヒクマ蔵書の売却
 これは焚書ではないがファーティ マ朝のカリフ、アル・ハーキムが建設したダール・アルヒクマ(知恵の館 دار الحكمة )はイスラームの異端であるイスマーイール派 の大図書館でありイスラーム世界有数の図書館でその在庫は10万冊を数えた。しかしイスマーイール派の王朝であるファーティマ朝最後のカリフが1171年 に病死すると、新しくエジプトの支配者になったスンニ派のサラーフ・アッディーンはこのダール・アルヒクマの蔵書の売却に乗り出したのである。イスマー イール派の知の拠点をカイロから消すためであった。同じようにイスマーイール派の教義研究の拠点アズハル学院もスンニ派の研究所に変えられた。書物はカイ ロの知識人の手に渡った。

 こういった行為はナチス・ドイ ツ、共産中国、ソ連など、歴史的事象の枚挙に暇は無い。モンゴル帝国も中央アジアの諸都市で図書館を焼いている。いずれも思考を停止し、一つの主義主張に 国民を統一させるためのものである。右も左も全体主義的な国家にとって、そもそも国家という集団にとって、考える国民は不要な存在である。時として国家の 意 志を妨げ、和を乱すからだ。つまり国家において考える国民である思想家や知識人は不要な存在であり、時には行政の障害となる。しかも不要で障害となるばか りか生産に携わらないにもかかわらず食べるものは食べる怠惰な国民でもある。国家にとって知識人は存在しないに越したことはない。そして、そういった知識 人の知性や教養は主に本、書物によって涵養される。だからこそ焚書は国家による思想統制の重要な行事であり、象徴的な儀式なのである。

 知性そのものは人間社会に無くて はならないものだ。なぜなら知性により批判精神が生まれるからである。共同体、会社、社会、そして国家という集団は時として集団における和を重視するあま りに個々の人間をあたかも歯車か細胞のようにみなし始めることがある。そこで批判精神が働いて集団の一人一人がその集団の動きに気付けば、そこで人間性が 失われることはなく個人が保たれる。もし知性が無ければ、集団を優先するあまりに気付かないうちに個人は人間性を次々と失っていきその構成員が人間である 必要性はなくなり、ロボットに置換されていくだろう。いつのまにか意識を失い、目覚めたときには集積回路で今日の予定を思い出し、朝の一杯で軽油を飲ん で、朝御飯のネジを原子炉で消化するのだ。

 しかし本に代表される知性が権威 化するとそれも問題である。大学教授などがその最たるもので、ここでの知性はかつて共産主義者が指摘したように既得権益以外の何者でもない。すなわち死ん だ知性である。死んだ知性の国では権威が無ければ誰も知を尊重しない。昨今は大学教員に芸能人や有名人が雇われることがあり、これは良い傾向であると考え る。しかし実態は決して良いものではない、なぜなら日本の知性の唯一の牙城であった権威がこれにより崩壊しつつあるからだ。ところで小中高の教鞭は教員免 許保持者だけしかとることができない、このことが一部の奇特な人間が教員になる傾向を作り、学校教育の崩壊を招いている。一方で大学教員には資格が不要で ある。そのことは知を生かし活性化させる土壌があるということだ。だからこそ、大学は人気取りの大学教員ではなく、知に溢れた人間を教員とすべきだ。そし て知の権威化の否定と大学教員の充実の両方が達成できなければ大学が解体されても文句は言えまい。

 知性が権威化していく社会よりは、『痴愚神 礼 賛』を暗唱した者や、『失われた時を求めて』の第一巻を暗唱した者が川べりを移動していく、そんな社会のほうがはるかに良い。しかし、その一方で読書をし ない人 間が増えて、多機能のケータイにかじりつきiPodを街中で聴き、毎晩毎夜、画像受像機(テレヴィディーロ Televidilo)で垂れ流される情報を 鵜呑みにする人間が増殖する社会も考え物だ。 彼らこそ「海の月」の奴隷であり、偽りの知性に踊らされて本物の知性を追放する、強大で醜悪な衆愚である。彼らは偽りの知性を増殖し、やがて多数の力によ り権威化させてしまうだろう。気付かぬうちに
衆愚の偽りの知性は本物の知性に取って替わり、権威を持ちはじめる。な ぜなら知性を知らぬ彼らは知性を尊重しないから、自分達の偽りの知性こそがすばらしいと思い込 んでいて、多数の力 でそれを具現化しようとする欲望を持つからだ。これは避けなければならない。そのためには知性が豊かに身近にあって参照でき、そしてその知性を尊重できる 社会が必要だ。

 このように、
死ん だ知性も偽りの知性もいらない、すなわち知の 集積だけがあって知の権威は存在せず、それでいて知を尊重できる社会、それが私のユートピアだ。とりあえず、これにはほど遠い状況の日本では 「本を踏まない、本の上に座らない、バチがあたるから」という風習だけは絶対に守らなければならない。これが失われると、この日本の知は 、微かながら残っていた権威さえも失って崩壊するだろう。権威は入用な悪だが、これが今の日本に無くてはならないことが悲しい。

Barkituro

【参考文献】

フィリップ・K・ヒッティ著、『ア ラブの歴史 (上)』、講談 社(講談社学術文庫)、1982。
佐藤次高著、『イ スラームの「英雄」サラディン―十字軍と戦った男』、講談 社(講談社選書メチエ)、1996。
レイ・ブラッドベリ著、『華 氏451度 (1964年)』、宇野 利泰訳、ハヤカワ文庫、2004。
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